第十二章
満ちる

夜明けに、塔の階段のいちばん上の段で、二人の声が、そろった。
『にひゃく、さんじゅう、きゅう』
「二百三十九」
リーネが、ウィラの腕に、しがみついた。
『ウィラが、いると、数えるの、楽』
「谷でも、数えてたよ。同じ数」
『知ってる。…ナナにも、言ってた』
波打ち際で、エミルの声がした。
「ヘルガ・ハーグレイヴ」
ヘルガが、一拍、止まった。
『…なんだい。朝から』
エミルは、それで、うなずいた。毎朝、そうすると、決めていた。
ベルが、白い建物の屋根の上で、竿を、引き上げた。
濡れたところに、指で、印を、つけた。印を、長いこと、見ていた。
『…増えています』
「増えた?」
『きのうの夜から。指の関節、三つ』
ベルは、塔を、見た。
『管の水が、着きました。…塔の下から、あふれています』
塔の入り口から、水が、ゆっくり、流れ出していた。黒くは、なかった。日の当たる白い道を、透きとおった水が、海のほうへ、流れていた。
ジェロームが、岸で、それを見ていた。眼鏡を、外して。
「本部が、刃の部屋の槽のために、引いた管です。…水は、槽の下の、貯め池に、着きます。そこから、あふれれば、塔の中を、通って、ここへ」
ウィラは、はっとした。
『刃の部屋。…板は?』
ユリウスが、うしろで、額の古い傷を、かいた。
「板は、硝子です。水に浸かっても、壊れません。…あの朝、丸い部屋に、水が来てから、ずっと、気になっておりました」
ユリウスは、塔の上のほうを、指さした。
「水が引いた日に、先生と、全部、塔の上の部屋へ、運びました。二百八十枚。管の水が、来る前に」
昼、ウィラは、塔の上の部屋に、上がった。
板が、壁に、並べて、立てかけてあった。何百枚も。白く、光っていた。
板の縁の字を、一枚ずつ、読んで歩いた。
一番。帝国暦三四九年。納屋の戸口。ミラベル・グリム・ケイン。
ウィラは、指を、当てた。
『ミラベル・グリム・ケインです』
ミラベルの声だった。眠そうな、朝の声。
「知ってる」
父さんの声。
『忘れないように』
少し、間が、あった。小さな音がした。鉤で、指先を、突く音。
それから、ミラベルが、言った。
『…坊や、好き』
「…知ってる」
『毎朝、言うからね』
「毎朝、聞いてる」
『名前はね、言うと、減らないの。…増えるの』
ウィラは、板の前に、しゃがみこんだ。膝を、抱えずに。背中を、壁に、つけて。
毎朝、名乗っていた。父さんが、覚えていても。
減らないで、増える。ウィラは、その言葉を、口の中で、くり返した。
夕方、ウィラは、波打ち際の、エミルの横に、座った。
「エミル。…ミラベルがね、毎朝、自分の名前、父さんに、言ってたの」
エミルが、ウィラを、見た。
「覚えてるのに、毎朝。…名前は、言うと、減らないで、増えるんだって」
エミルは、しばらく、黙っていた。
それから、横で、うとうとしている母親を、見た。
『…じゃあ、毎朝、増やす』
「うん」
『三か月ぶん。…九十回は、増える』
ヘルガが、目を、閉じたまま、言った。
「聞こえてるよ。…九十回も、呼ばれたら、うるさくて、かなわないね」
エミルは、笑った。泣きながら。
二日のあいだ、海は、増えつづけた。
白い道が、また、沈んだ。白い建物の壁の根が、また、水に、浸かった。塩の平野の向こうまで、水が、光っていた。
三日目の夕方、グレイが、岸に、立った。
『今夜、運べ』
「ドンたち、夜なら、平気?」
ウィラが、訊いた。ニコが、ドンの手のひらの、小舟の上で、うなずいた。
『夜なら、ナナも、トンも、コンも、平気だって。…二晩、歩けば、窪地に、着くって』
「管の水は、そのあいだも、ここに、来るんだよね」
ウィラが、訊いた。
『来ます』
ジェロームが、答えた。
『この海は、なくなりません。…ヘルガ殿は、ここに、いられます』
エミルが、母親の手を、握った。
日が、沈んだ。月が、出た。
四つの体が、海の中に、入っていった。
ドン。トン。コン。それから、塔の入り口から、ナナ。
四つの体が、海の中で、ゆっくり、膝を、ついた。
水が、動いた。
海が、四つの体の中へ、吸いこまれていった。光る水の体が、ふくらんだ。黒い水の体が、ふくらんだ。白く凍った体が、ふくらんだ。
水が、引いていった。
白い建物の壁の根が、また、乾いた。白い道の先が、月の下に、現れた。塩の平野の白い底が、水の下から、出てきた。
塔のまわりと、ヘルガのいる岸の前だけに、浅い水が、残った。ナナが、残していったのだった。塔の入り口からは、管の水が、また、少しずつ、流れ出していた。
四つの体は、立ち上がった。
壁より、ずっと高かった。塔と、同じくらいの高さだった。
四つの体は、西を、向いた。
それから、歩きはじめた。
一歩ごとに、地面が、低く、鳴った。乾いた塩の上に、濡れた足あとが、残った。
船が、浮かんだ。グレイの船。提督の船。灰色の船。
ウィラは、甲板の手すりから、身を乗り出していた。リーネが、横に。オスカと、ベルと、ガルドが、うしろに。ドラグと、ロズリンと、ケイルも。
ドンの手のひらの、小舟の上で、ニコが、手を、振っていた。
四つの体のうしろを、何かが、のそのそと、ついていった。
丘のような、焼けた塩の背中。
「…シオ」
リーネが、目を、まんまるにした。
『ついてきてる!』
シオは、四つの体の、濡れた足あとを、なめながら、歩いていた。
リーネは、手すりに、あごを、のせた。
それから、指を、折りはじめた。四つの体の、足音に、合わせて。
『いち。…に。…さん』
ウィラは、リーネの頭に、手を、置いた。
西の空に、星が、出ていた。その下に、父さんと、荷車で、縁を歩いた、大きな穴があった。
機械が止まってから、二百四十五日目の、夜だった。
第十二章 了