海壁

第七章

イーダの根

挿絵:イーダの根

マルタは、岸の、乾いた塩の上に、立っていた。白い服の人たちと、一緒に。

マルタは、両手を、口に、当てた。

『イーダ!』

細い声だった。いつも、小さな声で話す人だった。

それでも、もう一度、呼んだ。

『イーダ! …来て!』

白い服の人たちが、一緒に、呼んだ。イーダ。イーダ。

海の中で、何かが、ゆらりと、動いた。

白い、柔らかいもの。大だらいほどの大きさ。細い根が、水の中で、ゆらゆらと、揺れていた。

イーダは、一拍、止まった。名前を、呼ばれたから。

それから、氷の割れ目のほうへ、すうっと、泳いでいった。


ヒルデが、氷の上で、起き上がった。

口の端から、血が、出ていた。牙の金の輪が、一つ、なくなっていた。

ヒルデは、割れ目の前の、白い柔らかいものを、見た。それから、ドラグが組みついている、大きな獣の口を、見た。

『…あれを、口に、入れればいいのか』

「うん!」

ウィラが、叫んだ。

「イーダは、粒を、水に、返すの! …お腹の中の粒を、ほどける前に、水にするの!」

ヒルデは、何も、言わなかった。

水の中に、ざぶりと、踏みこんだ。両腕で、イーダを、すくい上げた。白い根が、ヒルデの太い腕に、からみついた。オークは、海の水では、変わらない。

ヒルデは、イーダを抱えて、獣の口の前に、立った。

獣の鼻先が、また、下がった。ドラグの足が、ずるりと、すべった。

『ドラグ!』

「…まだだ!」

ウィラは、オスカと、剣を、持ち上げた。

受けるな。横から、当てろ。

剣の腹を、獣の顎の下に、当てた。そっと。ちょっとだけ。

獣の頭が、上へ、逸れた。

大きな口が、ヒルデの胸の高さで、開いた。

『…飲め』

ヒルデが、言った。

『飲むのは、これからだ。…先に、これを、飲め』

ヒルデは、イーダを、獣の口の中へ、押しこんだ。


獣が、止まった。

口を開けたまま、動かなくなった。

喉の奥へ、白い根が、何十本も、するすると、伸びていった。腹のほうへ。

腹の中の光が、脈打った。一度。二度。

ウィラは、息を、止めた。オスカの手が、剣の根元を、ぎゅっと、挟んでいた。

光が、ちらついた。

それから、外側から、消えていった。

灯りを、一つずつ、吹き消すように。

獣の腹が、ゆっくり、ふくらんだ。ちゃぷん、と、水の音が、した。

ゲルダが、氷のうしろで、つぶやいた。

『…結び目が、ほどけてく』

獣の胸の奥の、赤い光が、消えた。

その瞬間、群れの全部が、止まった。

氷の岸に押しよせていた、何百の背中が、ばらばらに、あたりを、見回しはじめた。一つの生き物では、なくなっていた。

大きな獣は、ドラグの腕の中で、ゆっくり、膝を、折った。

それから、口から、白い、柔らかいものを、そっと、吐き出した。

イーダだった。

大だらいほどだった体が、荷車ほどに、なっていた。


ドラグが、獣の鼻先から、腕を、離した。

腕に、獣の塩の背中で擦れた傷が、何本も、あった。

大きな獣は、割れ目の前で、首を、伸ばした。

水へ。

今度は、誰も、止めなかった。

獣は、水を、飲んだ。長いこと、飲んでいた。

腹の中で、何も、光らなかった。

ヒルデが、獣の横で、それを、見ていた。顔の血を、手の甲で、拭った。

『…渇いてた、だけか』

「うん」

ウィラは、言った。

ヒルデは、しばらく、黙っていた。それから、ウィラを、見下ろした。

『殺せと言ったのは、わしだ。…覚えとけ』

「覚えとく」

ウィラは、ヒルデを、見上げた。

「でも、担いでくれたのも、覚えとく。エステルを。…今のも」

ヒルデは、鼻を、鳴らした。それから、そっぽを、向いた。


夜、月が、出た。

塔の入り口から、黒い水が、そっと、あふれた。

ナナだった。

ナナは、群れのほうへ、黒い水の手を、伸ばした。その横を、イーダが、泳いでいった。

群れの獣たちは、もう、暴れなかった。塩の上に、伏せていた。

ゲルダが、群れの中を、歩いた。一頭ずつ、目を、細めて。

『この子も、まだ、光ってる。…あの子も』

ゲルダが指さすたびに、ナナの黒い指と、イーダの白い根が、獣の口へ、そっと、入った。

腹の光が、一つ、また一つ、消えていった。


グレイの船の甲板に、ドラグが、戻ってきた。

ロズリンが、梯子の上で、待っていた。

『…帰ってきました』

「言ったろう」

ロズリンは、ドラグの腕の傷を、見た。布と、根の酒を、持っていた。

『座ってください』

「かすり傷だ」

『座ってください』

ドラグは、座った。ロズリンが、傷に、布を、当てた。ドラグが、少しだけ、顔を、しかめた。

『痛いですか』

「…痛くない」

『痛いんですね』

ロズリンは、布を、巻いた。それから、帳面を、膝に、開いた。

『まだ、書き終わっていません』

「…書けばいい」

『横に、いてください。書き終わるまで』

ドラグは、黙って、ロズリンの横に、座ったままでいた。

帝国暦三五〇年、春の終わり。孤独の大地の、新しい海の東の岸で。ドラグ・モーテンセン、獣を、押し返す。三十一頭。大きな一頭の、口を、押さえる。帰ってくると言って、帰ってくる。

ドラグは、帳面を、横から、のぞいた。

「…最後のは、要らんだろう」

『要ります。…いちばん、要ります』


夜明けに、リーネが、塔の階段のいちばん上の段で、指を、折った。

『にひゃく、さんじゅう、よん』

「…二百三十四」

ウィラは、隣で、言った。目が、重かった。一晩じゅう、起きていた。

東の岸で、獣たちが、水を、飲んでいた。何百も。氷は、もう、溶けていた。どの腹も、光っていなかった。

マティアスは、岸の天幕で、眠っていた。両手を、毛布で、包まれて。ジェロームが、凍えただけです、数日で戻ります、と、言っていた。

ベルが、白い建物の屋根の上で、竿を、引き上げていた。

濡れたところに、指で、印を、つけた。

ベルは、しばらく、印を、見ていた。

それから、言った。

『きのうより、ずっと、下がっています。…日と、塩と、獣たちが、飲んだぶん』

「どのくらい、もつの」

ベルは、少しだけ、黙った。

『二十日です』

機械が止まってから、二百三十八日目の、朝だった。

第七章 了