海壁

第二十三章

石の名前

挿絵:石の名前

朝、ドラグが、白い石を、肩に、かついで、南の岩へ、歩いた。

うしろに、街の者が、ついてきた。

ガス、オット、サム。ニムと、ヴェスタ。ミアと、ミラ。グロム。チビを抱いたロズリン。ベル。オスカ。ニコ。エマの綱を引いた、村の長。

ドラグは、白い石を、ミラベルの石の隣に、そっと、下ろした。

南の岩の前に、石が、三つ、並んだ。

名前を彫っていない、リーネ・ケインの石。

ミラベル・グリム・ケイン。数えるのが、うるさい。

それから、まだ何も書いていない、白い石。


ウィラは、石の前に、膝をついた。

ニムの細い筆に、墨を、つけた。

筆の先を、石に、当てた。

墨は、すべらなかった。石の上に、細く、黒く、残った。

うしろで、ニムが、ふん、と、鼻を、鳴らした。

『…のったな』

ウィラは、息を、止めて、書いた。

マーロウ・ケイン。

ゆうべ、十一回、書いた字だった。十二回目の字は、震えなかった。

リーネが、その下に、太い筆で、書いた。

かんがえとく、が、ながい。

「が」の点は、やっぱり、大きすぎた。

ガスが、字を、のぞきこんだ。

それから、吹き出した。吹き出したまま、両手で、顔を、覆った。

「…言ってた。あいつ、言ってた。おれが、四人で拾いに行こうって、誘ったときも。…考えとく、って」

オットとサムが、両側から、ガスの肩を、叩いた。二人とも、笑いながら、鼻を、すすっていた。


ガルドが、石の前に、座った。左手に、木槌を、提げていた。

『ウィラ。刻み棒を、持て』

「あたしが?」

『おれの手は、一本だ。…棒を当てる手が、要る』

ウィラは、細い鉄の棒を、両手で、握った。先を、墨の線の、いちばん端に、当てた。

『指は、棒の上だ。先には、出すな。…出さなければ、当たらん』

「うん」

『いくぞ』

こつん。

石の粉が、小さく、跳ねた。

こつん。こつん。

ガルドの木槌は、一度も、ウィラの指に、触れなかった。左で振っているとは、思えなかった。

墨の線の上を、棒が、少しずつ、進んだ。

ウィラの字の、とおりに。少しだけ、右肩の上がった、ウィラの字の、とおりに。

『…曲がらんな』

ガルドが、言った。

「ガルドさん、今日、まっすぐ、振ってるもん」

『曲がっとるのは、おまえの字だ。…おれは、その上を、なぞっとるだけだ』


リーネの字の番に、なった。

リーネが、棒を、握った。両手で。その上から、ウィラが、自分の手を、重ねた。

『ウィラ、手、あったかい』

「リーネの手も」

こつん。

か。ん。が。え。と。く。

リーネは、一字ずつ、声に、出した。

最後の「い」で、ガルドが、木槌を、止めた。

『最後は、深く、彫る』

ガルドは、言った。

『ミラベルのときも、そうした。…いちばん、残るように』

こつん。

いちばん深い音が、した。


グロムが、前に、出た。

懐から、たたんだ紙を、一枚、出した。オークの兵の頭らしい、四角い字だった。

当該の者、マーロウ・ケイン。帝国暦三五〇年、春、壁の根の水路にて、海を、残す。副長、グロム・ハルヴァー。

ドラグが、紙を、のぞきこんだ。

「…死亡、と、書いとらんな」

『書いておりません』

「書類だろう」

『…書けませんでした』

グロムは、それだけ、言った。ドラグは、何も、言わずに、紙を、受け取った。

ロズリンが、帳面を、開いた。

帝国暦三五〇年、夏の初め。南の岩で。ウィラ・ケインとリーネ・グリム・ケイン、マーロウ・ケインの名前を、石に、書く。

ロズリンは、筆を、止めた。それから、一行、足した。

石の字は、二人の字。彫ったのは、ガルド・レイン。


みんなが、少しずつ、帰っていった。

ニムが、杏を、三つ、置いていった。石の前に、一つずつ。

ベルは、いつもの場所に、座った。岩の、根元に。

ウィラとリーネは、三つの石の前に、並んで、座った。背中を、岩に、つけて。膝を、抱えずに。

リーネが、白い石に、手を、伸ばした。彫ったばかりの字を、指で、なぞった。

『おじさん。…名前、あるよ。ここに』

波の音が、していた。

『ねえちゃんの、となり。リーネおばあちゃんの、となりの、となり』

リーネは、外套の前から、握った手を、出した。粒を、手のひらに、のせた。

『ねえ、ウィラ。…もう、迷子に、ならないね。名前、あるから』

「うん」

『じゃあ、粒、水に、返す?』

ウィラは、首の袋に、手を、当てた。

ミラベルの粒が、中で、小さく、ころりと、動いた。

「…あたし、まだ、ミラベルの、返せない」

ウィラは、正直に、言った。

「返していいのか、わかんない。…わかんないの」

リーネは、少し、考えた。

それから、粒を、また、握った。

『じゃあ、あたしも、まだ』

「いいの?」

『二人で、決めるんでしょ。…ウィラが、わかったら、あたしも、わかる。たぶん』

ウィラは、リーネの頭に、手を、置いた。

リーネは、目を、閉じた。それから、口の端を、上げた。父さんの真似をして、ぼそりと、言った。

『かんがえとく』

ウィラは、声を上げて、笑った。

三つの石の前で、杏が、日に、光っていた。

機械が止まってから、二百六十八日目の、昼だった。

第二十三章 了