第九章
谷へ

「東の谷まで、どのくらい?」
ウィラが、訊いた。
ヴァレリアが、甲板の手すりに、地図を、広げた。
『ここから、南西へ。私の船で、一日だ』
「管は、その谷から、ここまで、来てるんだよね」
『塩の下を、北東へ、まっすぐ』
エミルが、言った。地図の上に、指で、線を、引いた。
『谷で、横の線を、開ければ、水は、ここまで、流れてくる。…おととしの冬から、去年の夏まで、流れてたみたいに』
「じゃあ、行く」
ウィラが、言った。グレイが、うなずいた。
『行け。…今日のうちに、発て』
行くのは、エミルと、ウィラと、オスカ。剣を、半分こで持つ二人が、要った。
『前に、管を閉じたとき、ミラベルが、剣を、押したの』
エミルが、言った。
『あたしの手で、引いて。あの人が、押して。…錆びない金属は、その剣でしか、刻めないから』
ウィラは、背中の剣の柄に、触れた。
ミラベルの剣。ガルドが渡して、ミラベルが持って、オスカに残した剣。
「…今度は、あたしたちが、押す」
『押す』
オスカが、うなずいた。
マティアスも、一緒に、行くと言った。両手は、まだ、少し、白かった。
「管の継ぎ目から、水が、しみ出しているかもしれません。…凍らせる者が、要ります」
空は、グレゴール。グリフォンで、船の上を、飛ぶ。
リーネは、ウィラの外套の袖を、つかんで、離さなかった。
『あたしも、行く』
「リーネは、ここ」
『なんで』
「ナナに、数えてあげて。…毎朝。ナナ、ひとりで、待ってたんだから」
リーネは、唇を、とがらせた。
塔の入り口の暗がりで、黒い水が、少しだけ、揺れた。
リーネは、そっちを、見た。それから、ウィラを、見た。
『…ナナに、数える』
「うん」
『ウィラも、数える?』
「数える。谷で。…同じ数」
リーネは、外套の前から、握った手を、出した。印のない粒。父さんの粒。
『これは、あたしが、持ってる』
「うん。持ってて」
ウィラは、首の袋に、触れた。ミラベルの粒が、入っていた。
「あたしは、こっち。…二人とも、一緒にいるから」
ドラグは、ロズリンの横に、立っていた。ケイルを、太い腕に、抱いて。
『隊長は、行かないんですね』
「おれが行っても、刻めん」
ドラグは、チビの頭を、大きな指で、そっと、撫でた。
「…それに、横に、おる、と、言った」
ロズリンは、帳面を、胸に、抱いた。それから、ドラグの腕に、自分の腕を、からめた。何も、言わずに。
船は、南西へ、飛んだ。
塩の平野が、終わった。乾いた土が、続いた。ひび割れて、白い粉を、吹いていた。昔の街の瓦礫が、ところどころ、砂から、突き出ていた。
夜、ウィラは、甲板で、膝を抱えずに、座っていた。背中を、帆柱に、つけて。
エミルが、隣に、来た。
『…母さんに、また、会える』
エミルが、言った。
「お母さん、どんな人」
エミルは、少し、考えた。
『怒鳴る。塩を掘る。手が、しょっぱい』
エミルは、笑った。
『…あたしが、熱で、運ばれたとき。母さん、墓を、一人で、掘ったんだって。中は、塩と、あたしの掘り棒だけ』
ウィラは、黙って、聞いていた。
『帰ったら、墓から、掘り棒を、掘り出してくれた。…掘り返すほうが、掘るより、ずっといいって』
次の日の夕方、行く手の地平に、白い崖が、二つ、見えた。
高さは、五十メートルほど。門の柱のように、向かい合っていた。そのあいだに、細い谷が、口を、開けていた。崖が、夕日を受けて、うっすらと、赤く、光っていた。
東の谷だった。帝国の塩の、半分が、ここから出る。
船が、谷の西の口に、降りた。
柵の前で、女が一人、腕を組んで、立っていた。
人間だった。五十を、少し過ぎたくらい。白髪まじりの茶色の髪を、頭のてっぺんで、一つに、まとめていた。腕が太く、手のひらが、塩で、ひび割れて、白かった。
ヘルガ・ハーグレイヴ。エミルの母だった。
ウィラは、声を聞く前から、この人には、逆らわないでおこう、と思った。
エミルが、光の柱から、降りた。
ヘルガは、動かなかった。
『…また、帰ってきたのかい』
「ただいま、母さん」
ヘルガは、十歩を、三歩で、詰めた。塩でひび割れた両手で、娘の背中を、つかむように、抱いた。
『今度は、何をしに来た』
「管を、開けに」
ヘルガの手が、止まった。
エミルは、母親の肩の上で、言った。
「去年、閉じた管。…あたしが、開ける」
ヘルガは、娘の体を、離した。娘の顔を、じっと、見た。
長い、間があった。
『閉じた坑は、開けない』
ヘルガは、言った。
『うちの決まりだよ。…知ってるだろう』
機械が止まってから、二百四十日目の、夕方だった。
第九章 了