第十五章
七つ

リーネが、梯子を、下りてきた。
外套の袖を、三回まくったまま。目を、こすりながら。
「…なんで、泣いてるの」
ニコは、答えなかった。
ウィラが、言った。
『…音が、しないの。夜中から』
リーネは、ニコの横に、立っていた。
長いこと、黙っていた。
それから、外套の前から、握った手を、出した。印のない粒。父さんの粒。それを、もう片方の手に、持ちかえた。
空いた手のひらを、地面に、つけた。
「…ナナ」
リーネは、地面に、言った。
「呼ぶよ。…名前、呼ぶと、止まるんでしょ。止まって、こっち、向くんでしょ」
リーネは、塩の地面を、叩いた。小さな手のひらで。
いち。
に。
さん。
し。
ご。
ろく。
なな。
「…ナナ」
何も、返ってこなかった。
東の空が、少しずつ、白くなっていった。
リーネは、手のひらを、地面から、離さなかった。
ウィラも。ニコも。
甲板から、オスカが、下りてきた。ベルが。ガルドが。ドラグとロズリンが。グレイの兵たちが、手すりに、並んだ。
誰も、何も、言わなかった。
リーネが、もう一度、叩いた。七つ。
「ナナ。…待ってるよ。あたしたち、待つの、慣れてるから」
それから、もう一度。七つ。
「イーダさんみたいに、待ってるから。…背中、壁につけて」
リーネの声が、震えた。
「だから、返事して。…一つでいいから」
とん。
小さな音だった。
ずっと、ずっと、下から。
ニコが、顔を、上げた。
『…いた』
とん。とん。とん。とん。とん。とん。
七つ。
ニコが、泣きながら、笑った。
『いた! …ナナが、名前、呼ばれたって! …それで、起きたって!』
「起きた?」
『みんな、疲れて、止まってたって。トンも、ドンも。…でも、ナナが、名前で、起きたって』
ニコは、地面に、両手を、押しつけた。
『…つながってるって』
「何が」
『水の道。…もう、ちょっとで、つながってたって。最後の、ひと押し、だけだったって』
足もとが、鳴った。
低く。
長く。
窪地の底から、窪地の縁まで。
最初に、噴き上がったのは、いちばん大きな船の、すぐ横だった。
白い塩の床が、割れた。そこから、水が、まっすぐ、空へ、立ち上がった。塔ほどの高さまで。
それから、もう一本。
二隻目の船の、横で。
三本目。四本目。
窪地じゅうで、塩の床が、割れていった。北の端でも。南の端でも。向こう岸の、かすんだ縁の下でも。水の柱が、何十本も、何百本も、朝の光の中に、立ち上がった。
落ちてきた水が、塩の上を、走った。
ウィラは、息を、するのを、忘れていた。
水たまりが、ふくらんだ。ふくらんで、ふくらんで、隣の水とつながった。つながった水が、また、隣の水と、つながった。
白い窪地が、端から、青く、なっていった。
「…海だ」
リーネが、地面に、手をついたまま、言った。
ウィラは、リーネの横に、膝をついていた。声が、出なかった。
いちばん大きな船が、うめいた。
市場がまるごと入るほどの、古い船。三百年、塩の床に、刺さっていた船。
船体の下に、水が、回りこんだ。
船が、揺れた。
それから、ゆっくり、塩の床から、離れた。
浮いた。
船首が、少しずつ、上がっていった。横倒しだった船体が、水の上で、ゆっくり、起き上がった。
甲板の上で、グレイの兵が、声を、上げた。一人。二人。それから、何十人も。
二隻目が、浮いた。三隻目が。
骨組みだけの船は、浮かなかった。水の下に、静かに、沈んでいった。それでも、波が、その骨のあいだを、通っていった。
ロズリンが、帳面を、開いていた。手が、震えていた。字は、震えていなかった。
帝国暦三五〇年、春の終わり。東の大窪地に、海が、帰る。三百年ぶりに。
ロズリンは、そこで、ペンを、止めた。
それから、もう一行、書いた。
呼んだのは、リーネ・グリム・ケイン。七つ。
日が、昇った。
水の柱が、一本ずつ、低くなっていった。噴き上がるのをやめて、湧くように、変わっていった。
窪地の、真ん中の、いちばん深いところで、水が、盛り上がった。
四つの体が、立ち上がった。
ドン。トン。コン。ナナ。
どれも、ひどく、小さくなっていた。トンの体の奥の、青い光は、今にも消えそうだった。コンの氷は、ほとんど、溶けていた。
日の光が、四つの体に、当たった。
「…日が」
ウィラは、立ち上がった。
「トンも、ナナも、日に、弱いのに」
ニコが、首を、横に、振った。
『平気だって』
ニコは、涙を、袖で、拭いた。
『ここは、深いから。…いちばん下は、日が、届かないって。ナナの子たちは、もう、底に、いるって』
四つの体が、ゆっくり、水の中に、沈んでいった。
光る体が、最後に、水の下で、青く、揺れた。
それから、深いところへ、見えなくなった。
『休むって』
ニコが、言った。
『…ずっと、我慢してたから。底で、休むって』
シオが、坂の下の、波打ち際に、立っていた。
新しい海が、シオの、焼けた塩の前脚を、洗っていた。
シオは、首を、伸ばした。
それから、ゆっくり、水を、飲んだ。
腹の中で、何も、光らなかった。
リーネは、やっと、地面から、手を、離した。印のない粒を、両手で、握りなおした。
『…おじさん』
リーネは、粒に、言った。
『海、できたよ』
機械が止まってから、二百五十二日目の、朝だった。
第十五章 了