海壁

第二十四章

ドン

挿絵:ドン

十五日が、たった。

朝、納屋の戸口で、二人の声が、そろった。

『にひゃく、ななじゅう、きゅう』

「二百七十九」

焚き火の前で、ロズリンが、帳面の端に、線を、一本、引いた。三十本目だった。

ドラグが、パンを、焼いていた。今朝は、焦がさなかった。

『…焦げとらん』

「三十回目ですから。…慣れたんでしょう」

『慣れとらん』

ドラグの耳の先は、三十日たっても、赤かった。


リーネは、毎朝、南の岩へ、杏を、三つ、持っていった。

ニムは、毎朝、杏を、三つ、袋に、入れて、待っていた。

『三つずつか。…ケインの家は、杏を、食いすぎじゃ』

「おばあちゃんと、ねえちゃんと、おじさんの、ぶん」

『知っとるわ』

ニムは、四つ目を、リーネの口に、押しこんだ。


昼、ニコが、壁の上で、石に、耳を、当てていた。

朝から、ずっと、そうしていた。

ウィラが、横に、しゃがんだ。

「何か、聞こえる?」

ニコは、答えなかった。目を、閉じていた。

それから、ぱっと、目を、開けた。

『…ドン』

「え」

『ドンが、起きた。…帰ってくる。もう、すぐそこ』

ニコは、跳ね起きた。壁の縁から、海を、見た。

沖の海が、光った。

光る水の体が、ゆっくり、立ち上がった。頭も、顔もない。光る水が、人の形をして、海の中に、立っていた。壁と、同じくらいの高さだった。

「ドン!」

ニコの声が、海の上に、響いた。


壁の上に、街じゅうの者が、駆け上がってきた。

ドンは、浜に、近づいてきた。膝まで、海に、入ったまま。それから、ゆっくり、膝を、ついた。

光る手を、浜に、置いた。

手のひらの形に、草が、生えそろった。前のときと、同じだった。

ガスが、階段を、転がるように、下りていった。浜の、草の上に、立った。

『…おかえり。おかえり! …おかえり、この野郎!』

三回目は、長かった。

ドンの胸のあたりが、ゆっくり、明るくなった。

ニコが、ガスを、追い越して、走っていった。草の上を、まっすぐ。ドンの、大きな指の先の、すぐ前で、止まった。

ドンの体は、海の水だった。触れれば、手首まで海に浸けるのと、同じだった。

ニコは、手を、伸ばしかけて、胸の前で、止めた。

「ドン! …寝すぎ!」

光る指が、ニコの前で、そっと、曲がった。ニコの体から、指一本ぶん、離れたまま。抱きしめるような、形だった。

ウィラのうしろで、エマが、浜の新しい草へ、首を、伸ばしていた。ミアが、綱を、引っぱられていた。

『エマ! まだ! ドンの手の、まだ、横!』


夕方、ニコが、浜の乾いた草の上に、座っていた。その前に、ドンが、指を一本、伸ばしていた。

ウィラ、リーネ、オスカ、ベルが、そのまわりに、集まっていた。ドラグと、ロズリンも。

『ドンが、窪地のこと、教えてくれた』

ニコが、言った。

「窪地の海、どうなってる?」

『毎日、増えてる。…ベルが、打った杭、もう、水の下だって』

「早い」

『それから、船が、動いたって。…いちばん大きいの』

ウィラは、顔を、上げた。

「ドミニク?」

『うん。ドミニクと、船乗りの人たちが、帆の骨に、布を、張ったって。セラフィナさんの船の、天幕の布。…窪地の真ん中まで、走ったって』

「…ほんとに、走らせたんだ」

『ドミニク、走らせて、泣いたって』

ウィラは、笑った。編んだ髭を、指でしごく顔が、浮かんだ。

『ヒルデさんも、縁に、来てる。ゾルの家の人たちと。…シオが、ヒルデさんの、横に、いるって』

「シオが」

リーネが、目を、まるくした。

ニコの声が、そこで、少し、低くなった。

『…それでね』

ニコは、ドンの指に、手のひらを、向けた。触れない、ぎりぎりのところで。

『ドンが、眠ってるあいだ、ナナが、底で、ずっと、聞いてたって。地面の、音』

「地面の、音?」

『足音。…東から』

ウィラの胸が、冷たくなった。

「…獣?」

『前の群れより、ずっと、多い。ずっと、ずっと、遠くから。渇いた獣が、水の匂いを、嗅いで。…窪地の海が、大きくなったから、匂いが、遠くまで、届いたんだって』

「…ベル」

ウィラは、ベルを、見た。ベルは、静かに、言った。

『腹に、昔の粒を、溜めた獣なら。…あの海の水を、飲めば、腹の粒が、濡れます』

「…一度に、ほどける」

ウィラは、言った。

孤独の大地で、ベルが言ったことだった。一頭なら、家が、一つ。あの数なら、全部。

「ナナは」

『ナナは、まだ、疲れてる。…それに、昼は、上に、来られない。日が、当たるから』

「イーダは、孤独の大地だし」

『うん』

ニコは、ドンの指を、見上げた。

『だから、ドンが、来たの。…起きて、すぐ。二晩、歩いて』

ドンの胸の光が、壁の根のほうへ、向いた。

排水口の、ほうへ。

その奥の、水路の、ほうへ。

『…ヨカを、呼んできてって。ナナが』

オスカが、ゆっくり、立ち上がった。

開いたままの両手を、胸の前で、合わせた。

「ヨカは、あたしが、見てる」

オスカは、言った。

「…見てるって、ヨナスに、言った。だから、あたしも、行く」

機械が止まってから、二百八十三日目の、夕方だった。

第二十四章 了