海壁

第二十章

ヨカの水路

挿絵:ヨカの水路

朝、納屋の前の焚き火で、ロズリンが、帳面に、小さな線を、一本、引いた。

ウィラは、それを、のぞきこんだ。頁の端に、線が、十三本、並んでいた。

「何の線?」

『隊長が、小さい声で、名前を、言った数です』

ロズリンは、眼鏡を、押し上げた。

『窪地の夜の、次の朝から、毎朝、一回。…今朝で、十三回です』

焚き火の向こうで、ドラグが、桶を、運んでいた。聞こえないふりを、していた。耳の先が、赤かった。

「…今朝、なんて言ったの」

『ロズリン・モーテンセン、と。…それから、パンを、焦がしました』


東門の外に、セラフィナの船が、浮いていた。

ドミニクが、梯子の下に、立っていた。うしろに、捕らえた十四人。噛む兵だった五人と、船乗りだった九人。みんな、縄は、もう、なかった。

グロムが、帳面を、閉じた。

「三か月は、窪地の海で、明けるんでしたな」

『明ける。…あの海の、そばで』

ドミニクは、海壁を、見上げた。灰色の、長い壁。

『この壁の下で、耳飾りを、噛んだ。…ここの子に、髭を、引っぱられて、水路に、落ちた』

ドミニクは、ウィラを、見た。

『礼は、言わん。…だが、船が動いたら、一番に、乗せてやる』

「約束?」

『船頭の約束だ』

ウィラは、笑った。

「じゃあ、リーネも。…あと、エマも」

『牛か』

「乗せて」

ドミニクは、編んだ髭を、指で、しごいた。

『…でかい船に、なる』


エステルは、梯子の途中で、振り返った。

リーネが、下から、見上げていた。

エステルは、梯子を、二段、降りた。それから、胸の灯りを、リーネに、差し出した。

「貸してあげる」

『…なんで』

「また、貸すって、言ったでしょ。…暗いとき、見てて」

リーネは、灯りを、両手で、受け取った。中で、一さんの粒が、白く、光った。

『いつ、返すの』

「次に、会うとき」

エステルは、梯子を、駆け上がった。

「だから、また、会うの!」

セラフィナが、梯子の上で、娘の肩に、手を、置いた。焼けた跡の残る、左の手で。

船が、浮かんだ。

リーネは、灯りを、胸に、抱えたまま、手を、振らなかった。灯りを、落とさないように。


昼、ウィラは、壁の上で、ガルドと、並んで、座っていた。

ガルドは、左手で、楔を、削っていた。いつもの癖だった。

「ガルドさん」

『なんだ』

「粒に、字、彫れる?」

ガルドの手が、止まった。

ウィラは、首の袋から、ミラベルの粒を、出した。手のひらに、のせた。

ガルドは、長いこと、それを、見ていた。

『彫れん』

短く、言った。

『粒は、石じゃない。金属でもない。…刃を当てても、すべるだけだ。ニムの墨と、同じだ』

「…そっか」

『石なら、彫れる』

ガルドは、楔を、また、削りはじめた。

『あの石も、左で、彫った。字が、曲がった。…曲がってていい、と、おまえが言った』

ウィラは、粒を、袋に、戻した。

「エマ・ドーセット。歌が、下手」

『ハロルド・ドーセット。歌が、もっと、下手』

二人とも、少しだけ、笑った。


夜更け、ウィラは、目を、覚ました。

干し草の上が、冷たかった。隣に、リーネが、いなかった。

「…リーネ?」

外套が、なかった。

角笛は、柱の釘に、かかったままだった。

エステルの灯りが、なかった。

ウィラは、跳ね起きた。

納屋の戸口に、オスカが、立っていた。月の光の中で、開いたままの両手を、だらりと、下げて。

『ウィラ。…リーネ、いない』

「見た?」

『見てない。…起きたら、いなかった』

ベルが、戸口の外に、現れた。いつから、そこにいたのか、分からなかった。

「ベル。…リーネが」

『壁の上には、いません。グロムが、見張りの兵に、訊きました』

「浜は」

『浜にも、いません』

ウィラの胸が、冷たくなった。

禁止区。南の岩。白い石。

「南の岩!」

ウィラは、走りかけた。

そのとき、オスカが、言った。

『…ちがう』

オスカは、壁の根のほうを、見ていた。

『灯りが、ある。…壁の根の、下に』


ウィラは、壁の根の階段を、駆け下りた。

広間は、暗かった。棚の粒は、もう、ほとんど、なかった。ヨカが、毎日、少しずつ、水に、戻していた。

水路の縁に、小さな灯りが、一つ、揺れていた。

エステルの灯りだった。

その横に、リーネが、しゃがんでいた。外套の袖を、三回まくったまま。

右の手を、水路の上に、まっすぐ、伸ばしていた。手のひらを、下に向けて。

握った指の、あいだから、小さな光が、こぼれていた。

父さんの粒だった。

水路の水が、ゆっくり、盛り上がっていた。白い根が、何本も、水の中から、リーネの手のほうへ、伸びてきていた。

ヨカだった。

粒を、水に、返す子。

「リーネ!」

ウィラの声が、広間に、響いた。

リーネは、振り向かなかった。

手を、伸ばしたまま、言った。

『…おじさんを、水に、返すの』

機械が止まってから、二百六十六日目の、夜だった。

第二十章 了