第二十九章
アカリ

夜、東の縁に、焚き火が、いくつも、燃えた。
坂の下の水際で、獣たちが、まだ、水を、飲んでいた。何千もの背中が、星の光の中で、ゆっくり、上下していた。
山のような一頭は、水際に、腹ばいに、なっていた。シオが、その横で、眠っていた。
セラフィナの船が、縁に、降りてきた。
梯子を、リーネと、エステルが、駆け下りてきた。
『ウィラ!』
「リーネ!」
リーネは、ウィラの腰に、ぶつかった。それから、ウィラの手を、取った。手のひらが、すり切れて、血が、にじんでいた。
『…いたい?』
「いたい」
『ヴェスタさんに、言いつける』
「言いつけて」
ウィラは、笑った。笑うと、腕が、また、震えた。
エステルが、水際の、山のような一頭を、見ていた。
「ねえ。…あの子、名前、ある?」
ヒルデが、焚き火の前で、首を、横に、振った。
『ない。…獣に、名前は、つけん。つけると、殺せなくなる』
「殺さないんでしょ」
『…殺さん』
エステルは、リーネを、見た。
「リーネ。…つけていい? あたし」
『いいよ』
リーネは、すぐに、言った。
『エステル、何か、持ってくるって、言ったでしょ。…名前、持ってきて』
エステルは、灯りを、胸に、抱えた。中で、一の粒が、白く、光っていた。
「…お腹が、灯りみたいだったから」
エステルは、水際の、大きな背中に、向かって、言った。
「アカリ」
大きな耳が、ぴくりと、動いた。
ヒルデが、鼻を、鳴らした。
『もう、殺せんな』
ドミニクが、船を、縁に、つないでいた。焚き火の明かりの中で、帆の布の、破れたところを、縫っていた。
ウィラは、その横に、座った。
『この船にも、名前が、要る』
ドミニクは、縫う手を、止めずに、言った。
『三百年前の名前は、船首に、彫ってあったんだろうが、削れて、読めん。…一番に乗った者が、名をつける。船乗りの、決まりだ』
「あたしが?」
『おまえが、一番に、乗った』
ウィラは、つぎはぎの帆を、見上げた。
長いこと、見ていた。
それから、言った。
「…考えとく」
言ってから、自分で、吹き出した。
ドミニクが、怪訝な顔を、した。
「ごめん。…父さんの口癖」
『長いのか』
「すっごく、長いの」
ドミニクは、編んだ髭を、指で、しごいた。
『待つのは、得意だ。…三百年、待った船だ』
夜更け、ウィラは、オスカを、探した。
オスカは、水際に、座っていた。水から、半歩、離れて。
水の中で、ヨカの青い光が、ゆっくり、脈打っていた。白い根が、ときどき、水際の獣の口に、入っては、戻ってきた。まだ、腹に、少しだけ、光を、残した獣が、いたのだった。
ウィラは、オスカの横に、座った。
『ウィラ』
オスカが、言った。水を、見たまま。
『あたし、ここに、残る』
ウィラは、すぐには、何も、言えなかった。
『獣、また、来る。東から。…ヒルデは、十年、ここにいる。ヨカも、ここに、いたほうが、いい』
「ヨカは、海壁の街の、子だよ」
『うん。…でも、海壁の街の棚は、もう、空っぽ』
オスカは、開いたままの両手を、膝の上に、置いた。
『ヨカは、あたしが、見てる。…見てるって、言った。だから、ヨカのいるとこに、いる』
「…自分で、決めたの」
『決めた。…ミラベルの、指示』
オスカは、少しだけ、笑った。
『守りたいものは、自分で、決めて。…ミラベルが、ベルに、言ったんでしょ。ベルが、教えてくれた』
ウィラの目の奥が、熱くなった。
「…さみしい」
『あたしも』
「毎年、来る」
『来て。…リーネも。エマも』
ウィラは、オスカの肩に、頭を、ぶつけた。ごつん、と。
オスカは、少し、驚いて、それから、動かなかった。
朝、リーネとウィラが、焚き火の前で、指を折った。
『にひゃく、はちじゅう、さん』
「二百八十三」
少し離れて、ドラグが、東の空を、見ていた。口が、小さく、動いた。
今度は、ウィラにも、聞こえた。
ロズリン・モーテンセン。
ドラグは、振り向いて、ウィラが聞いていたのに、気づいた。
『…聞こえとらんな』
「聞こえてない」
ウィラは、すまして、言った。
機械が止まってから、二百八十七日目の、朝だった。
第二十九章 了