海壁

第二十一章

一人で決めない

挿絵:一人で決めない

ウィラは、走るのを、やめた。

水路の縁まで、あと、十歩だった。

走っていけば、リーネは、驚いて、手を、開いてしまう。そんな気がした。

ウィラは、歩いた。ゆっくり。足音を、たてないように。

リーネの右の手は、まだ、握られたままだった。水の面から、指一本ぶん、上に。水には、触れていなかった。

白い根が、何本も、その拳のまわりで、揺れていた。指の背に、そっと、触れては、離れた。

『…取らないよ』

うしろで、オスカが、言った。開いたままの両手を、胸の前で、合わせていた。

『ヨカは、握ってるものは、取らない。…手が、開くまで、待ってる。あたし、毎日、見てたから』

ウィラは、リーネの隣に、しゃがんだ。水路の縁から、半歩、うしろに。

リーネは、振り向かなかった。

「リーネ」

『…止めに、来たんでしょ』

「わかんない」

ウィラは、正直に、言った。

「走ってきたけど。…止めるのか、わかんない」


リーネの拳が、震えていた。

『おじさん、ここで、光になったんでしょ』

リーネは、水路を、見ていた。

『ヨカに、一滴、あげて。光が、ここから、海に、走って。…おじさんも、一緒に、行ったんでしょ』

「…うん」

『なのに、これだけ、残ってる』

リーネは、拳を、少しだけ、持ち上げた。

『これだけ、置いてかれてる。…一人で』

ウィラは、息を、のんだ。

『字も、書けない。ニムさんの筆、すべった。ガルドさんも、彫れないって。…名前、どこにも、書けない』

白い根が、拳に、また、触れた。

『書けないなら。…水に、してあげる。そしたら、海に、行ける。エステルが、言ったもん。どこにでも、行けるって。…ねえちゃんの、とこにも』

「…でも、そしたら」

ウィラの声が、かすれた。

「ここには、いなくなる。リーネの、手の中には」

『わかってる!』

リーネが、初めて、振り向いた。顔が、涙で、ぐしゃぐしゃだった。

『わかってるから、夜に、来たの! 昼に、言ったら、ウィラ、だめって、言うもん!』


広間が、静かになった。

水の音だけが、していた。

ベルが、階段の下で、立ち止まっていた。オスカは、動かなかった。

だめ、と、言うつもりだった。走ってくるあいだ、ずっと、その言葉を、胸の中で、握っていた。

けれど、言えなかった。

リーネの言うことが、まちがっていなかったからだ。

「…リーネ。ずっと前にね」

ウィラは、言った。

「荷車の上で、父さんが、ミラベルに、言ってたの。あたし、手綱、持ってて、聞いてた。…一人で決めるのは、なしだって、おまえが言った、って」

『…ねえちゃんが、言ったの?』

「うん。ミラベルが、先に、言ったんだって。父さん、ちゃんと、覚えてた」

ウィラは、リーネの拳の下に、自分の手のひらを、さしだした。水の上ではなく、縁の石の上で。

「あたしも、一人で、決めない。…だめって、一人で、言わない。だから、リーネも、一人で、返さないで」

リーネは、長いこと、ウィラの手のひらを、見ていた。

それから、拳を、水の上から、ゆっくり、引いた。

ウィラの手のひらの上で、指を、一本ずつ、開いた。

印のない粒が、一つ、光っていた。


白い根が、一本だけ、水の中から、伸びてきた。

粒の、すぐ上で、止まった。根の先が、粒に、そっと、触れた。

それから、すうっと、水の中へ、戻っていった。

『…待ってるって。決まるまで』

オスカが、言った。

「…ヨカ、待つの、上手だもんね」

ウィラは、水路の真ん中の、青い光を、見た。ヨアの子だった。ヨアは、三百年、蓋の下の暗いところで、誰かの手を、待っていた。

ベルが、階段の下から、歩いてきた。二人の、うしろに、立った。

『ヨカだけでは、ありません。…私も、待ちます。何日でも』


四人で、水路の縁に、座った。

ウィラとリーネは、背中を、壁に、つけて。膝を、抱えずに。オスカとベルは、その両側に。

エステルの灯りが、四人の足もとで、白く、光っていた。

「ねえ、リーネ。ミラベルの名前は、石に、あるでしょ」

『うん。ガルドさんが、彫った』

「あのとき、父さん、言ったの。リーネおばあちゃんのは、彫らなかったけど、こいつのは、彫るって。…名前を、どこにも書いてないのは、もう、いいって」

ウィラは、手のひらの粒を、見た。

「…なのに、父さんのは。どこにも、ない」

リーネが、ウィラの顔を、見上げた。

『…ない』

「ない」

ウィラの胸の奥で、何かが、熱くなった。悲しい、ではなかった。もっと、まっすぐなものだった。

「…ずるい。自分で、言ったくせに」

『ずるい』

リーネが、繰り返した。涙のあとの、まだ、濡れた声で。

『おじさん、ずるい』


ウィラは、粒を、リーネの手のひらに、返した。

「先に、名前を、書こう。粒じゃなくて。…石に」

『ガルドさんの、石?』

「うん。ガルドさん、言ってた。石なら、彫れるって」

リーネは、粒を、握った。今度は、強くは、握らなかった。

『それから?』

「それから、二人で、決める。粒のこと。…返すか、返さないか」

リーネは、うなずいた。それから、ウィラの肩に、頭を、のせた。

『走ってきたとき、こわかった?』

「こわかった」

『あたしも』

階段の上から、朝の光が、細く、降りてきていた。

リーネが、指を、折った。

『にひゃく、ろくじゅう、さん』

「二百六十三」

機械が止まってから、二百六十七日目の、朝だった。

第二十一章 了