海壁

第五章

渇いた群れ

挿絵:渇いた群れ

夜明けに、東の地平線が、動いていた。

土煙だった。その下で、背中が、何百も、こちらへ、走ってきていた。

焼けて黒く固まった塩の背中。割れ目が、赤く光っている獣。口から、白い光を吐く獣。錆色の板を重ねた、目のない獣。犬ほどの小さなものが、何十、何百。

ウィラは、塔の階段のいちばん上の段で、それを見ていた。

指を折るのも、忘れていた。

リーネが、隣で、指を折った。

『…にひゃく、さんじゅう、さん』

「…二百三十三」

ウィラは、やっと、言った。


ペトラが、ゆうべから、ずっと、東の岸に座っていた。膝を、指で、叩きながら。

「夜のうちに、倍に、なりました」

ペトラの指は、まだ、止まらなかった。

「昼前には、ここに、着きます」

グレイの船の甲板に、みんなが、集まった。

ウィラは、手すりから、東を見ていた。あの獣たちを、知っていた。共和国の畑で、ヨアの湧いた朝に、父さんたちが、戦った獣だった。乾いた土地で、土の下の昔の粒を食べて、ほどいて、生きている獣。

『水の、においだ』

ウィラは、言った。

『渇いてるの。…この海を、飲みに来たんだ』

ヒルデが、腕を、組んだ。

「飲ませてやれば、いいだろう。水なら、ある」

『いけません』

ベルが、言った。いつもの平らな声では、なかった。

『あの獣たちは、腹に、昔の粒を、溜めています。…飲めば、腹の粒が、濡れます』

ウィラは、息を、のんだ。

濡れた粒は、ほどける。ほどけたぶんが、光と、熱と、力になる。

底の主のことを、思い出していた。海壁の街の、乾いた底で眠っていた、焼けた塩の背中の獣。腹に、三百年ぶんの粒を、抱えていた。割れば、壁ごと、飛ぶ。ベルが、あのとき、そう言った。

「…一度に、ほどける」

『はい。一頭なら、家が、一つ。…あの数なら』

ベルは、塔を、見た。白い建物を。船を。岸に並んだ、何千の人を。

『全部、です』

甲板が、静かになった。


『殺すしか、ない』

ヒルデが、言った。

『水に、届く前に。…一頭残らずだ』

「殺さない」

ウィラは、すぐに、言った。

ヒルデが、ウィラを、見下ろした。牙の金の輪が、朝の光を、はじいた。

『娘。あれは、何百だぞ』

「渇いてるだけだよ」

ウィラは、ヒルデを、まっすぐ、見上げた。

「乾いた土地で、ずっと、昔の粒を食べて、生きてきたの。水が、なかったから。…水がなくなったのは、あの子たちの、せいじゃない」

ヒルデは、黙った。

グレイが、ゆっくり、口を、開いた。

『殺すか、殺さんかは、あとだ。…まず、水に、届かせるな』

「どうやって」

『それを、今、考えろ』


白髪の男が、一歩、前に、出た。

痩せて、背が高い。灰色の目。マティアス・フェンウィックだった。共和国の畑で、本部の手の硝子の目に、自分の手を当てて、凍らせた人。

『凍らせます』

マティアスは、自分の右手を、見下ろした。

『凍った水は、粒を、濡らしません。…岸を、凍らせれば、獣は、飲めません』

「岸、全部?」

『私の手では、全部は、無理です』

マティアスは、塔の影を、見た。

『…ですが、もう一人、凍らせられる方が、おられます』

塔の影に、ところどころ白く凍った、光る水の体が、身を寄せていた。

コンだった。おととい、日の下で、腕を広げて、ナナの子たちの影の道を、作ってくれた。氷が、まだ、ところどころ、溶けたままだった。

ニコが、ドンの手のひらの小舟の上で、コンのほうへ、身を乗り出した。

しばらく、黙っていた。

それから、言った。

「…やる、って」

ニコの声が、震えた。

「日は、痛いけど。…妹の海だから、って」


ドラグが、船べりの梯子に、足をかけた。

「前は、オークが、立つ。…水に入れるのは、おれたちだけだ」

ロズリンが、ケイルを抱いたまま、梯子の上に、立った。

『隊長』

「なんだ」

『帰ってきてください』

「帰る」

ドラグは、梯子を、一段、降りた。それから、止まった。振り向かずに、言った。

「…書いとけ。おれが、何をしたか。全部だ」

『はい。…全部、書きます』

ロズリンは、帳面を、胸に、押し当てた。

『だから、帰ってきてください。…書き終わるまで、横に、いてください』

ドラグの耳の先が、赤くなった。

それから、黙って、梯子を、降りていった。


昼前、東の岸が、白くなった。

マティアスが、岸の端に、膝をついていた。右手を、水の上に、かざして。手のひらから、白い霜が、水の上を、走った。水は、マティアスの手に届く前に、凍った。凍った水は、手を、濡らさない。人間のマティアスが、岸に立てるのは、そのためだった。

その向こうで、コンが、岸に沿って、長い腕を、伸ばしていた。腕が触れたところから、水が、白く、固まっていった。

氷の岸が、北から南へ、長く、伸びた。

ドラグと、ヒルデと、オークの兵たちが、氷の内側の、浅い水の中に、並んだ。盾と、太い棒を、持って。

ウィラは、オスカと、氷の上に、立っていた。剣を、二人で、持って。

ベルが、その横に、跳んで、降りた。

「ベル! 水…」

『氷です』

ベルは、氷の上に、立っていた。平気な顔で。

『凍った水は、粒を、濡らしません。私の腕が、触れても、粒には、なりません。…ここなら、私も、前に、立てます』

地面が、鳴った。

土煙の中から、焼けた塩の背中が、最初の一頭、飛び出してきた。

そのうしろで、何かが、立ち上がった。

ほかの獣の、何倍も、大きかった。焼けた塩の背中が、小さな丘のように、盛り上がっていた。長さは、荷車を、何十も並べたほどもあった。

氷の岸の、少しうしろで、赤茶の髪の女が、目を、細めた。

ゲルダ・クロスリーだった。共和国の畑で、群れを動かす一頭を、見抜いた人。銀に近い、薄い目をしていた。

「…あの一頭」

ゲルダが、言った。

「胸の奥の、結び目が、脈打ってる。…ほかの全部が、あれに、合わせてる」

機械が止まってから、二百三十七日目の、昼だった。

第五章 了