第三章
日陰

ナナの子たちは、目に見えなかった。
深い水の暗がりにしか、棲めない、小さな生き物。日に当たると、一日ほどで、死ぬ。
その子たちが、新しい海の、どこにでも、いた。ナナと一緒に、床の下から、上がってきて。
『ナナが、呼んでる。…戻っておいで、って』
ニコは、ドンの手のひらの小舟の上で、身を乗り出していた。
『でも、遠いんだって。海が、広すぎて。…戻る前に、日が、来ちゃう』
ドンが、動いた。
光る水の体が、ゆっくり、膝をついた。新しい海の上に。それから、両腕を、大きく、広げた。
海の上に、影が、落ちた。
ウィラは、甲板で、息を止めた。
共和国の都で、トンが、初めて、日の下に出た朝も、ドンは、こうして、膝をついて、トンの屋根になった。父さんが、そう、話していた。
そのトンが、動いた。黒い水の体が、ドンの横で、腕を、広げた。
コンが、動いた。ところどころ白く凍った体が、反対側で、腕を、広げた。凍った腕の先で、薄い氷が、日の光を、白く、はじいた。
三つの体が、塔へ続く海の上に、長い影の道を、かけた。ナナの子たちが、日に当たらずに、塔へ、戻れるように。
『トンも、コンも、日は、痛いのに』
ニコの声が、震えていた。
『きのうから、ずっと、我慢して、立ってたのに。…ナナが、いちばん、下の妹だからって』
影の下で、海の色が、変わった。
透きとおった水の中を、黒い筋が、何本も、泳いでいった。塔のほうへ。塔の入り口へ。階段を、さかのぼって。丸い部屋へ。縦穴へ。
川が、逆さに、流れていくようだった。
昼まで、かかった。
最後の黒い筋が、塔の入り口に、消えた。
『みんな、戻ったって』
ニコが、言った。
『ナナが、ありがとうって。…ドンと、トンと、コンに』
三つの体が、ゆっくり、腕を、下ろした。トンの体の奥の青い光が、弱くなっていた。コンの氷が、ところどころ、溶けていた。
トンとコンは、塔の影に、身を、寄せた。
海は、透きとおっていた。水の下で、塩の平野の白い底が、日に、光っていた。
夜、月が、出た。
塔の入り口から、黒い水が、そっと、あふれた。
ナナだった。
階段の下で、ナナは、立ち上がった。月の光の下で、黒い水の体の奥の青い光が、星のように、瞬いていた。
ドンが、待っていた。トンも。コンも。
四つの体が、新しい海の上で、向かい合った。
長いこと、誰も、動かなかった。
それから、ドンの光る手が、ナナの黒い手に、触れた。トンの手が、重なった。コンの、冷たい手も。
とん。
とん、とん。
こん。
いくつもの音が、水の底から、響いてきた。
ニコが、小舟の上で、泣いていた。
『…やっと、会えたって』
ウィラとリーネは、塔の階段の、いちばん上の段に、座っていた。水に、届かない段に。背中を、塔の壁に、つけて。
リーネが、指を折って、数えた。ドン。トン。コン。ナナ。四本。
『…四人、きょうだい』
「あたしたちも、四人だよ」
ウィラは、言った。
「あたしと、リーネと、オスカと、ベル」
リーネは、指を、四本、見つめた。それから、満足そうに、うなずいた。
『じゃあ、同じ』
ナナの体が、階段のほうへ、傾いた。黒い水の手が、リーネの足もとの、乾いた石を、叩いた。
とん。
「…ナナ?」
ウィラが、言った。
ニコの小舟が、ドンの手のひらに乗って、階段のすぐ横まで、寄ってきた。
『ナナが、話したいって。…ウィラと、リーネに』
『ナナは、ここの、地面の下の、水の中に、いたんだって』
ニコは、ナナの黒い手の、すぐ上に、自分の手を、かざしていた。触れないように。
『東の、砂の下の、大きな海と、つながってた水。…粒を、水に、戻すのが、好きだったって。お腹が、すくと、粒を、食べて、水にしたって』
「…ヨアの子と、同じ」
『うん。…そしたら、本部の手が、来たんだって。錆びない金属の、大きな手。ナナのいる水のまわりを、錆びない金属で、ぐるっと、囲んで。東の海と、つながってるところを、閉じて。…それから、上に、粒の山を、置いた』
ウィラは、息を、のんだ。
「いちばん、食べたいものの、下に」
『うん。…三百年、ずっと、においだけ、してたって』
ウィラは、縦穴の底の、あの床を、思い出していた。本部は、ナナを押さえるために、そこに、山を、積んだのだろう。ウィラは、そう思った。
『でもね』
ニコの声が、少し、変わった。
『一人だけ、いたって。…上で、床を、叩き返してくれた人』
ウィラの手が、止まった。
『背中を、壁に、つけて、座ってたって。…ずっと、何か、待ってたって』
「…膝を、抱えないで?」
『うん。座るとき、背中が、壁に、こつんって、当たる音が、したって。毎日』
ニコは、ナナの手の上で、目を、閉じた。
『ナナが、叩くと、叩き返してくれた。…それから、名前を、教えてくれたって』
『イーダ』
ウィラは、帳面を、胸に、押し当てた。
帝国暦六十八年、夏。蓋の上から、イーダ・ケインを、連れてくる。眠らせて、血を、取る。
「…イーダさんだ」
『イーダは、ナナの名前を、訊いたって。ナナには、なかった。…そしたら、イーダが、言ったって』
ニコの声が、かすれた。
『出てきたら、つけてあげる。…それまで、待ってて、って』
『それから、少しして、叩く音が、しなくなったって』
夜の海の、波の音だけが、していた。
「…上へ、連れていかれて、眠らされたんだ」
ウィラは、言った。声が、震えた。
「それから、二百年。…ずっと、眠ったまま、血を、取られたの」
リーネが、粒を、握りしめていた。
『…あたし、イーダさんの、代わりに、つけたの?』
「代わりじゃない」
ウィラは、リーネの頭に、手を、置いた。
「イーダさんは、待っててって、言った。…ナナは、待った。三百年。そしたら、リーネが、来た」
ウィラは、言った。
「リーネの、番だったんだよ」
リーネは、しばらく、黙っていた。
『…うん』
それから、ナナの黒い手に、向かって、言った。
「ナナ。…塔の水路にも、イーダって子が、いるよ。粒を、水に、戻す子。白い服の人たちが、つけたの」
ナナの体の奥で、青い光が、いくつも、いっぺんに、明るくなった。
ウィラは、帳面を、開いた。月の光で、書いた。
帝国暦六十八年、夏。孤独の大地の、心臓の部屋の、床の上で。イーダ・ケイン、ナナに、待っててと、言う。
書き終えたとき、ニコが、また、ナナの手の上に、手を、かざした。
『ナナが、もう一つ、言ってる』
「なに」
『西に、大きな、穴が、あるって。…昔、海だった、穴』
ニコは、西の、暗い空を、見た。
『ドンが、来る途中で、底を、歩いてきたって。乾いてて、塩だらけで、古い船が、いっぱい、沈んでる穴。…ずっと、さみしがってる穴だって』
ウィラは、顔を、上げた。
東の大窪地。三百年前まで、海だった場所。
二年前、父さんと、その縁を、荷車で、歩いた。
「…そこに、行きたいの?」
ナナの手が、乾いた石を、一つ、叩いた。
とん。
機械が止まってから、二百三十五日目の夜だった。
第三章 了