第三十四章
帝都からの船

それから、十日、海は、朝ごとに指の関節一つ分ずつ、引いた。
春の初めと、同じ速さだった。ベルは、毎朝、杭の数字を刻んで、壁の上に戻ってきた。戻ってくると、ウィラが、壁のいちばん高いところで、それを待っていた。
『一つ分です』
「一つ分!」
ウィラは、毎朝、同じ返事をした。毎朝、嬉しそうだった。
エミルとヘルガは、三日、街にいた。ニムの杏を食べ、ヴェスタに腕を見せ、ガルドの刻んだ白い石の前で、手を合わせた。四日目の朝、提督の船で、東の谷へ帰っていった。
エミルは、船の縁から、掘り棒を高く上げた。
『十二人がそろう日には、行きます!』
それから、もう一度、言い直した。
『…行くよ! 自分で!』
ルーカスは、クララに、二通目の手紙を書いた。
今度は、一枚では足りなかった。字が、大きすぎた。ミアが、紙を三枚、足してやった。
グレゴールは、ドラグの前に、膝をついていた。
『壁の兵に、してください』
ドラグは、グレゴールを見下ろした。背中の布は、もう取れていた。翼のあった場所に、太い傷が二本、残っていた。
「壁の兵は、人の前に立つ」
ドラグは、言った。
「翼のあるなしは、関係ない。…立てるか」
『立ちます』
ドラグは、グロムを振り向いた。グロムが、槍を一本、グレゴールの手に渡した。
その日から、グレゴールは、壁の上に立った。
壁の下の通りで、子どもたちが、壁の上を見上げていた。グレゴールは、それに気づくと、少しだけ、困った顔をした。それから、背筋を伸ばして、前を向いた。
ロズリンが、帳面に書いていた。
グレゴール・ヴァーン、壁の兵になる。見上げられて、困った顔をする。
十日目の朝、納屋の藁の上で、ミラベルが、マーロウの顔を覗きこんでいた。
『ミラベル・グリム・ケインです』
「知ってる」
『忘れないように』
マーロウは、鉤で、左の人差し指を突いた。赤い一滴を、ミラベルの唇に落とした。
納屋の戸が、叩かれた。
「おはよう、父さん。おはよう、ミラベル」
ウィラの声だった。
「朝ごはん、ニムの店。ミアが、豆、煮たって。しょっぱいかも」
ミラベルが、藁の上で、足をばたばたさせた。
『嬢ちゃんが、名前で呼んだ!』
「毎朝、呼んでるだろ」
『毎朝、嬉しいの』
その日の昼、東の空に、船が一隻、見えた。
灰色の、帝国の船だった。
壁の上で、グレゴールが、槍を握り直した。ドラグが、壁の兵を並べた。ミラベルが、マーロウの前に立った。
船は、東門の外の荒れ地に、ゆっくり降りた。
一隻だけだった。砲の筒は、どれも、空を向いていた。
船の腹が、開いた。
最初に降りてきたのは、男だった。
短い灰色の髪。鼻の上を横切る、細い傷。右手にだけ、黒い革の手袋。胸に、錘は下げていなかった。
ヴァルター・ブラントだった。
ミラベルが、目を丸くした。
「…生きてた」
『生きている』
ヴァルターは、言った。いつもの、低い、よく通る声だった。
『陛下の前で、一晩、話した。谷のことと、十二の家の者のことと、二百八十九名のことを。…数えた話をしただけだ』
その後ろから、女が一人、降りてきた。
銀の髪を、顎の線で、まっすぐに切りそろえていた。薄い灰色の目。手袋は、していなかった。
皇帝の名代、セラフィナ・ロウだった。
セラフィナの横に、小さな女の子が、くっついていた。九つくらい。母親と同じ銀の髪。胸に、灯りを一つ、抱えていた。昼でも、火の入った灯り。中で、印のない粒が、白く光っていた。
エステルだった。
エステルは、ミラベルを見つけると、灯りを抱えたまま、片手を、少しだけ上げた。
ミラベルは、マーロウの前に立ったまま、手を振り返した。
セラフィナが、マーロウの前に来た。
『一〇六番』
表情は、前と同じだった。何も、顔に出なかった。
『陛下が、あなたに、お会いになりたいと、仰せです。帝都で』
「なんでだ」
『陛下は、本部との約束を、お考え直しになっています。西の海の半分を、帝国が受け取るという約束を』
セラフィナは、少しだけ、黙った。
『そのために、あなたの話を、直にお聞きになりたいと。…近衛が、一晩かけて、陛下に数を読ませました』
マーロウは、ヴァルターを見た。ヴァルターは、前を向いたままだった。
「…行くかどうかは、おれが決める」
『はい』
セラフィナは、言った。
『陛下も、そう仰いました。決めるのは、本人だ、と』
夜、壁の上で、マーロウは、ミラベルと並んで座っていた。
乾いた底の向こうに、海が、細い青い線になって、月の光を返していた。
ミラベルは、マーロウの肩に、頭をのせていた。
『坊や』
「なんだ」
『帝都、行くの』
「まだ、決めてない」
『行くなら、あたしも、行く』
「知ってる」
『嬢ちゃんも、行くって言うよ』
「知ってる」
『ロズリンも。ドラグも。ミラも』
「知ってる」
ミラベルは、くすっと笑った。それから、マーロウの手を取って、金属の指と、肉の指で、包んだ。
『じゃあ、今日も、いた?』
「今日も、いた」
『いた』
壁の下で、灯りが、一つずつ、消えていった。ニムの店の二階だけ、まだ、明るかった。ミアが、今日のことを、一行も落とさずに、書いているのだろう。マーロウには、そう思えた。
二年のうちの、九十七日目だった。
第三十四章 了
第八巻 了
