海壁

第十七章

支度

挿絵:支度

次の朝から、畑じゅうが、婚礼の支度を始めた。

誰も、やり方を知らなかった。それで、知っている者が、自分の知っているやり方を、一つずつ持ち寄った。

最初に来たのは、ケイルだった。

『オークの婚礼では、婿が、嫁の名前を、大声で三回叫ぶ』

ドラグの顔から、血の気が引いた。

「…誰に聞こえるように」

『畑じゅうにだ。親父は、お袋の名前を、谷三つ向こうまで聞こえるように叫んだと、お袋が自慢しとった』

「兄貴。…それは、やらんといかんのか」

『やらんでもいい。お袋が、墓の中で、がっかりするだけだ』

ドラグは、両手で、顔を覆った。


昼、土の窯の前で、アディが、粉をこねていた。

ハンナが、その横で、腕を組んで見ていた。

『ヴェルンの婚礼では、一つのパンを、二人で両端から割るの。大きいほうを取ったほうが、家の財布を握る』

ハンナが、マーロウに言った。

『あの子が、焼くって。二つ。…誰にも頼まれてないのに』

「アディが」

アディが、粉だらけの手のまま、顔を上げた。

『頼まれて、おりません』

アディは、言った。

『…焼きたいのです。わたしが』

丁寧な言い方だった。それでも、自分で決めた言葉だった。ハンナが、息子の頭に、窯の火で焼けた手を置いた。


小屋の裏で、オーウェンが、木を削っていた。

細い輪だった。腕輪の大きさ。表に、斜めの線が二本ずつ、交差して刻んであった。グリムのやり方の、手首の交差の形だった。

ネルが、横で、もう一つを削っていた。

ミラベルが、通りかかって、足を止めた。

「それ、なに」

オーウェンは、手を止めなかった。

『…グリムの、嫁入りだ』

ミラベルが、目を瞬いた。

『グリムの家から、嫁が出る。家の者が、何も持たせんわけには、いかん』

オーウェンは、削りかけの輪を、陽にかざした。

『親父のいない嫁は、家の頭が、送り出す。…グリムの家の頭は、今は、おれだ』

ミラベルは、何も言えなくなった。

二百年も前、ミラベルに名前をくれた男も、グリムだった。その男は、とっくに死んでいた。グリムという名字だけが、ずっと、ミラベルのものだった。

「親父。嫁に出す側の顔になってるよ」

ネルが、横から言った。

『…うるさい』

オーウェンの口の端が、上がっていた。ミラベルの右目から、ぽろぽろと、涙が落ちた。

「…ずるい。婚礼、まだなのに」

『泣くのは、当日にしな』

ネルが、自分の輪を、ミラベルの金属の手首にあてがって、大きさを確かめた。

『こっちは、あんたの旦那の分。左の手首に、赤い紐があるだろ。その上から、はめる』


夕方、光る草のそばで、ミラとニコが、並んでしゃがんでいた。

光る草を、根元からつまんで抜いて、編んでいた。輪の形に。

『ウィラの、誕生日の、輪』

ミラが、言った。

『ニコに、聞いた。ミアと、ニコで、黄色い草で、作ったって』

ニコが、得意そうに、胸を張った。

「こっちの草は、光るから、夜でも、見える」

ミラは、木の指で、ゆっくり、草を編んだ。何度も、ほどけた。そのたびに、最初から、やり直した。

『二つ。ミラベルと、ロズリン』


夜、荷車の下で、ミラベルが、マーロウの腕の中で、天井の板を見ていた。

『…嬢ちゃんにも、見せたかったな』

「そうだな」

『ハロルドにも。ミアにも。ガスにも。ベルにも』

マーロウは、少し黙った。

「海壁の街でも、やればいい」

『…え』

「もう一回。ウィラの前で」

ミラベルが、がばっと、体を起こした。荷車の床板に、頭をぶつけた。

『二回するの!?』

「したいなら、な」

『する! 二回する! 三回でもする!』

「三回は、多い」

ミラベルは、頭をさすりながら、マーロウの胸に、顔を押しつけた。くぐもった声で、何度も、何かを言っていた。マーロウには、全部、聞こえていた。


その夜更け、東の輪で、ティルダが、灯りを一つ点けて、帳面を書いていた。

婚礼の記録の、下書きだった。横に、マリエが横になっていた。

ティルダは、筆を止めて、娘の顔を見た。

毎晩、そうしていた。

その夜は、娘の目が、開いていた。

灯りを、見ていた。それから、灯りの横の、ティルダの顔を見た。

長い、間があった。

娘の唇が、動いた。

「…おかあさん」

ティルダの手から、筆が落ちた。

今度は、ティルダは、それを拾わなかった。

第十七章 了