第二章
東の谷

朝には、マーロウの両腕から、赤みが引いていた。
水ぶくれの跡が、うっすら残っているだけだった。傷の治りの早い体だった。
ミラベルは、その腕を、肘から手首まで、指でたどった。一か所ずつ、確かめるように。
『…十一』
「何がだ」
『昨日、焼けてたところ。十一か所』
ミラベルは、その十一か所に、一つずつ、唇を押し当てていった。
「…治ってるぞ」
『治ってても。やだったぶん』
十一か所が終わると、ミラベルは、目を閉じて、顔を上げた。
マーロウは、鉤で左の人差し指を突いた。赤い一滴を、その唇に落とした。
それから、少しだけ屈んで、自分のほうから、口を重ねた。
ミラベルが、目を開けた。
『…今日の、一滴ぶんより、多い』
「昨日の、ぶんだ」
ミラベルは、藁の上で、足をばたばたさせた。
小屋の中で、ロズリンが、帳面を広げていた。
向かいに、エミルと、トビー・マーシュが座っていた。二人とも、東の谷の出だった。
ロズリンは、ヒューゴの台帳から写した頁を、指で押さえた。本部行きの行だった。
帝国暦三三五年、夏。ヨルク・ハーグレイヴ。東の谷。本部行き。家族、妻一名、娘一名。在宅。
帝国暦三四四年、冬。エミル・ハーグレイヴ。東の谷。本部行き。家族、母一名。在宅。
エミルは、上の行を、長いこと見ていた。
『…父です。わたしが、十の年でした』
「孤独の大地で、お父さんに、会ったことは」
『ございません。…一度も』
ロズリンは、それ以上、訊かなかった。帳面の端に、小さく印をつけただけだった。
エミルは、下の行に指を移した。
『わたしは、塩の坑で、熱を出しました。白い服の方が、熱に効くと、瓶を。…しょっぱい瓶でした』
五年前の冬のことだった。
「谷のことを、話せ」
マーロウは、エミルの向かいに座った。ミラベルが、その横に座った。
『東の谷は、東の砂と、こちらの土地のあいだにある、細い谷です。両側が、白い塩の崖で。塩を掘って、牛の荷車で、西へ運びます』
「獣は、そこを通るのか」
『獣は、谷を通らなければ、西へは出られません』
トビーが、横から言った。まだ少し丁寧すぎる、あの言い方だった。
『北も南も、崖と砂です。…谷の、東の口から入って、西の口から出る。道は、一本だけです』
「エミル。おふくろさんは」
『ヘルガ・ハーグレイヴと申します。塩の坑の、頭です。…頭、でした。五年前は』
エミルの声が、少しだけ、揺れた。
マーロウは、ロズリンの胸の硝子の板を、受け取った。
「本部。東から来た獣は、おまえが送ったのか」
白い字が、すぐに浮かんだ。
いいえ。私は、獣を作りません。
「なら、なんで、東から来る」
東の土地が、乾いているからです。乾いた土地では、獣は、土の下の昔の粒を食べ、ほどいて生きるようになります。
「なんで、乾いてる」
白い字は、少しのあいだ、浮かばなかった。
それから、浮かんだ。
去年の冬に、管を通しました。この春から、東の砂の下の海の水を、その管で、孤独の大地へ、引いています。
小屋の中が、静かになった。
『地の下の、四つの海の、一つです』
ロズリンが、低い声で言った。
『海壁の街の海だけでは、なかった』
「何に使う」
答えません。答えると、あなたがたが東へ行く見込みが、上がります。
マーロウは、板を、ロズリンに返した。
「…上がったぞ。今」
エミルが、立ち上がった。
『谷に、帰りたいです』
小屋の中の全員が、エミルを見た。
エミルは、少しだけ、首を傾けた。それから、まっすぐに戻した。
『誰にも、言われておりません。…自分で、そう、思いました』
「分かった。送る」
マーロウは、言った。
「獣の通り道が谷なら、谷で止めれば、ここには来ない。おれと、ミラベルと、ミラで行く」
それから、トビーのほうを向いた。
「谷までは、どのくらいだ」
トビーが、少し考えた。
『牛の荷車で、八日です』
ミラベルが、あたしの足なら二日、と言った。
「なら、二日だ。ミラ、エミルを背負えるか」
『背負う』
ミラが、木の指を開いて、閉じた。
『姉ちゃん、背負ったこと、ある。…エミルは、姉ちゃんより、軽い』
「本人の前で言うな」
ミラベルが、横で、頬をふくらませた。
『おれは』
ドラグが、腕を組んだまま、言った。
「畑を頼む。また来るかもしれん」
『…書くやつの横を、空けるわけにも、いかんしな』
ロズリンは、帳面から顔を上げなかった。眼鏡の縁の横で、耳の先が、少し赤くなっていた。
マーロウは、トビーを見た。
「おまえは」
『わたしは、ここで、名前を呼びます。呼ぶ者が、要ります』
トビーは、少し黙った。
『…谷の、マーシュの家に、伝えてください。塩の袋を縫う家です。トビーは、生きている、と』
「自分で言いに行け。いつか」
『…はい。いつか』
ロズリンが、帳面に書いた。
エミル・ハーグレイヴ、谷に帰ると言う。自分で、決めた。
夕方、北の空から、灰白色の翼が降りてきた。
ラーナ・オーヴェインだった。十二日前に、マーロウの手紙を持って、海壁の街へ飛んだ獅子の体の女だった。
ラーナは、畑の端に降りると、首の筒を、マーロウの前に差し出した。
『返事です。…読むと、たぶん、笑います』
筒の中の紙は、三枚あった。
一枚目の字は、ウィラのものだった。
第二章 了