第四章
白い崖の谷

兵たちが、槍の先を、こちらへ向けた。
ミラベルは、マーロウを背中から降ろすと、その前に立った。
「また、重くするの」
『今日は、獣だけだ』
ヴァルターは、槍を下げさせた。胸の錘は、前のものより小さかった。黒い色は、同じだった。
「なんで、あんたが、ここにいる」
マーロウが訊くと、ヴァルターは、谷の奥を顎で指した。
『陛下は、しくじった近衛を、谷の番に回された。帝都に着く前にな』
「塩の番か」
『帝国の塩の、半分が、この谷から出る』
ヴァルターの声は、畑で聞いたときと同じだった。低くて、よく通った。
『獣は、この春から、夜ごとに東の口から来る。兵を連れて来て、十二日。四十人で来て、立っているのは、二十六人だ』
ヴァルターの目が、ミラの背中のエミルの、灰色の服に移った。
『その女は、二百八十九名の一人だな』
「そうだ。この谷の女だ」
ヴァルターは、しばらく、エミルを見ていた。それから、谷の崖に並ぶ戸口を見た。
『…通れ。今夜は、数えん』
ミラベルが、ヴァルターの前を通りすぎながら、言った。
「坊やに近づいたら、その錘、また割るからね」
『覚えておく』
谷は、東西に四キロほど続いていた。幅は、三百メートルほど。
両側の白い崖に、戸口が、何段にも並んで掘られていた。家は、崖の中にあった。谷の底には、四角い坑が、いくつも口を開けていた。塩を掘った跡だった。
人間と、オークと、ゴブリンが、行き来していた。みな、痩せていた。水の樽を載せた牛の荷車が、西の口から入ってきていた。
エミルが、ミラの背中から降りた。
自分の足で、坑のほうへ歩いていった。途中で、一度も迷わなかった。
いちばん大きな坑の縁で、女が一人、怒鳴っていた。
人間だった。五十を少し過ぎたくらい。白髪まじりの茶色の髪を、頭のてっぺんで一つにまとめていた。腕が太く、手のひらが塩でひび割れて、白かった。オークの男たちが、その声に合わせて、塩の塊を坑から引き上げていた。
マーロウは、声を聞いただけで、この女には逆らわないでおこう、と思った。
エミルが、十歩手前で、足を止めた。
女が、振り向いた。
抱えていた塩の籠が、女の手から、落ちた。白い塊が、足もとに散らばった。
『…エミル』
「…母さん。帰りました」
丁寧な言い方では、なかった。
ヘルガ・ハーグレイヴは、動かなかった。
『熱で、死んだって。…五年前に。墓も、掘ったのに』
「墓の中は」
『塩だけだよ。…あんたが使ってた、掘り棒と』
それから、ヘルガは、十歩を三歩で詰めた。塩でひび割れた両手で、娘の背中を、つかむように抱いた。
エミルは、母親の肩の上で、目を瞬いた。頬に、何かが伝っていた。本人は、それが何か、分からない顔をしていた。
「…母さんの、手。しょっぱい」
『塩を掘ってりゃ、しょっぱくもなるさ』
ヘルガの声が、割れた。
マーロウの袖を、横から、ミラベルがつかんでいた。鼻をすすっていた。
「…泣いてるのか」
『泣いてない。…坊や。今、すっごく、坊やの手、握りたい』
「もう握ってるだろ」
『もっと、握りたいの』
その夜、マーロウたちは、ヘルガの家に通された。崖を掘った部屋で、壁も床も、白い塩だった。
ヘルガが、床を、足で踏み鳴らした。
『去年の冬から、この下で、夜じゅう、何かが鳴ってる。低い音だよ。春から、音が太くなった。谷の者は、みんな聞いてる。見た者は、いない』
「今もか」
マーロウが耳をすますと、確かに、足の裏の下のほうで、低く唸る音がしていた。
そのとき、音が、止んだ。
次の瞬間、谷の底が、揺れた。
戸口から見下ろすと、いちばん大きな坑のまわりの地面が、丸く沈んでいくところだった。差し渡し、四十メートル。塩の床が割れ、穴になった。
穴の縁から、赤い光が、あふれ出した。
獣だった。犬ほどの大きさのものが、何十も。背中が、焼けた塩で覆われて、赤く光っていた。畑に来た獣を、ずっと小さくしたような形だった。
群れは、崖の戸口へ散った。戸口に垂らした葦の簾が、獣が触れたところから、燃えた。
『今夜は、下からか!』
ヴァルターの声が、谷に響いた。
『錘、群れの上だ!』
錘の兵たちが、胸の錘を光らせた。群れの上だけ、空気が重くなった。獣たちが、腹を地面にこすりつけて、這った。
ミラベルが、崖の戸口から、飛び降りた。
「腹は、割らない。…首だけ」
ミラベルは、這う群れのあいだを、走り抜けた。剣が光るたびに、小さな首が、腹から遠いほうへ転がった。
ミラが、崖の上から、叫んでいた。右の二段目の戸口、まだ一つ光ってる、と。ミラベルの影が、そこへ跳んだ。
息を十数えるころには、動く赤い光は、一つもなかった。
兵たちが、どよめいた。
ヴァルターは、剣を抜いたまま、動かなかった。
崖の上で、ミラが数えていた。全部で、四十三、と。
ミラベルが、戸口の下から、マーロウを見上げて、両手で丸を作った。
マーロウは、それに片手を上げかけて、止めた。
穴の底が、赤く光っていた。
さっきの群れの光ではなかった。もっと深いところで、もっと大きなものが、ゆっくり、動いていた。
背中だった。穴の差し渡しより、ずっと大きな背中だった。
第四章 了