海壁
第七巻の終わり 人物相関図
第七巻の終わり 人物相関図

第一章

焼けた背中

挿絵:焼けた背中

『起きて、坊や』

ミラベルの声が、耳のすぐそばでした。

マーロウは、荷車の下で目を開けた。床板の隙間から、赤い光が差しこんでいた。

畑の草の光は、青白い。こんな色ではなかった。

焦げた匂いがした。

「…火か」

『火じゃない。…背中が、燃えてる』

ミラベルは、もう荷車の下から出ていた。腰に、名前のない剣を差していた。

二年のうちの、五十二日目の夜だった。


畑の東の端に、獣がいた。

荷車を四台つないだほどの長さ。背の高さは、小屋の屋根の倍。太い脚が四本。頭を低く下げて、ゆっくり歩いていた。

背中が、黒い石で覆われていた。石と石の割れ目が、竈の奥のように赤く光り、背中全体から陽炎が立っていた。

獣が一歩踏むたびに、光る草が黒く縮れ、煙が上がった。

向かう先は、東の列だった。この春、マーロウが夜ごと管につながって寝た列だ。杭の一本一本に、人が眠っていた。管で杭につながれて。逃げろと言われても、すぐには走れない人たちだった。

列のあいだを、施療所の兵だった者たちが走っていた。管を外し、眠っている人を担いで、西へ運んでいた。先頭で、トビー・マーシュが声を張り上げていた。

それでも、列は長かった。

ドラグが、杭を一本引き抜いて、獣の鼻先に叩きつけた。

杭は、当たったところから、燃えた。

『近寄れん!』

ドラグが、焦げた杭を放り捨てた。灰色の腕の皮が、赤くなっていた。

「下がってろ!」

マーロウが叫ぶより先に、ミラベルが走っていた。

獣の頭の前に回りこむと、左の金属の手を、額の黒い石に押し当てた。肉の右手は、腰の後ろに回したままだった。

獣の頭が、止まった。

四本の脚が、土を掻いた。それでも、獣の体は、ミラベルの左手一本の前で、一センチも前へ出なかった。

ミラベルの灰色の髪の先が、ちりちりと縮れた。


ロズリンが、帳面を抱えて駆けてきた。寝間着の上に、上着を引っかけていた。

『腹は、割らないでください!』

「割らない!」

ミラベルが、振り向かずに叫んだ。

『東から来る獣は、腹に昔の粒を溜めています。濡れた粒が、いっぺんにほどけたら、この列ごと、なくなります』

「分かってる。…でも、これ、ずっとは、やだ。熱い」

マーロウは、鉤で左の手のひらを突いた。

獣が、口を開けた。喉の奥が、白く光っていた。熱い息が、吐き出された。

マーロウは、その口めがけて、手のひらの血を振った。

血は、届かなかった。獣の口の手前で、赤い滴が、黒い粉になって散った。

ミラが、マーロウの横に来ていた。金属の目を、細めていた。

『血、途中で、乾いた』

「どこなら、濡れてる」

『口の、奥。舌の根もと。粒が、いっぱい、光ってる。…熱は、そこから、出てる』

「濡れたまま、届けばいいんだな」

『管だ!』

ネルだった。道具袋に手を突っこみながら、走ってきた。

取り出したのは、指ほどの硝子の管だった。木の栓がついていた。前にミラベルのために血を詰めた管と、同じものだった。ネルの道具袋には、あの日から、空の管がいつも入っているらしかった。

マーロウは、突いた手のひらを、管の口に押し当てて握った。赤いものが、管の底に溜まった。ネルが、栓を叩きこんだ。

「口を、開けとけるか」

マーロウは、ミラベルに叫んだ。

『開けとく。…でも、坊やは、来ないで』

「投げるのは、おれだ」

ミラベルは、それ以上、言い返さなかった。

左手を、額から上顎の石の縁にかけかえた。片足で、獣の下顎を踏みつけた。ブーツの底から、煙が上がった。

それから、上顎を、持ち上げた。

獣の口が、開ききった。白い光が、夜を焼いた。

マーロウは、その光に向かって、走った。

顔の皮膚が、ひりついた。袖が、くすぶった。痛みは感じない体だった。熱さだけは、分かった。

口の縁で、足を止めずに、管を投げこんだ。

喉の奥で、硝子の割れる音がした。

白い光が、揺れた。

それから、消えた。


獣の背中の割れ目から、赤が一つずつ消えていった。

陽炎が、薄くなった。四本の脚が折れ、獣は、腹を地面につけて、動かなくなった。浅い息だけが、残っていた。

『首なら、いい?』

「首なら、いい」

ミラベルは、剣を抜いた。一度だけ振った。

獣の首が、腹から遠いほうへ、転がった。

それから、ミラベルは、剣を放り出して、マーロウの両手首をつかんだ。

マーロウの両腕は、袖が焼け落ちて、赤くなっていた。水ぶくれが、いくつもできていた。

『坊やに、触らないでって、言ったのに。…熱でも』

「触りに行ったのは、おれだ」

『もっと、やだ』

ミラベルは、マーロウの腕に、ふうふうと息を吹きかけた。焦げた髪の先が、マーロウの手に当たった。

「…おまえが先に、あの熱の中にいた」

マーロウは、言った。

「おれが行かないで、どうする」

ミラベルは、吹くのをやめた。それから、マーロウの焼けた腕に、額を押しつけた。

ティルダが、灯りの下で、帳面に書いていた。

帝国暦三四九年、夏の初め。東の列に獣。焼けた杭、十四本。けが人、一名。一〇六番の、両腕。


夜が明けたとき、獣の背中のそばに、若い女が一人、しゃがんでいた。

灰色の服。エミル・ハーグレイヴだった。孤独の大地から歩いてきた、二百八十九人の一人。

エミルは、背中の黒い石を、小石で割っていた。割れた内側は、白かった。うっすらと、赤みがあった。

エミルは、指先でその白いものをすくって、舐めた。

マーロウが近づいても、エミルは顔を上げなかった。

『…塩、です』

マーロウが何も訊かないうちに、エミルは言った。

『背中の石は、焼けて固まった、塩です。…東の谷の、塩です。谷の塩は、少しだけ、赤い』

「谷の塩だと、分かるのか」

『毎日、掘っておりました』

エミルは、ようやく顔を上げた。東の空を見ていた。

『母が、おります。谷に』

第一章 了