
第一章
焼けた背中

『起きて、坊や』
ミラベルの声が、耳のすぐそばでした。
マーロウは、荷車の下で目を開けた。床板の隙間から、赤い光が差しこんでいた。
畑の草の光は、青白い。こんな色ではなかった。
焦げた匂いがした。
「…火か」
『火じゃない。…背中が、燃えてる』
ミラベルは、もう荷車の下から出ていた。腰に、名前のない剣を差していた。
二年のうちの、五十二日目の夜だった。
畑の東の端に、獣がいた。
荷車を四台つないだほどの長さ。背の高さは、小屋の屋根の倍。太い脚が四本。頭を低く下げて、ゆっくり歩いていた。
背中が、黒い石で覆われていた。石と石の割れ目が、竈の奥のように赤く光り、背中全体から陽炎が立っていた。
獣が一歩踏むたびに、光る草が黒く縮れ、煙が上がった。
向かう先は、東の列だった。この春、マーロウが夜ごと管につながって寝た列だ。杭の一本一本に、人が眠っていた。管で杭につながれて。逃げろと言われても、すぐには走れない人たちだった。
列のあいだを、施療所の兵だった者たちが走っていた。管を外し、眠っている人を担いで、西へ運んでいた。先頭で、トビー・マーシュが声を張り上げていた。
それでも、列は長かった。
ドラグが、杭を一本引き抜いて、獣の鼻先に叩きつけた。
杭は、当たったところから、燃えた。
『近寄れん!』
ドラグが、焦げた杭を放り捨てた。灰色の腕の皮が、赤くなっていた。
「下がってろ!」
マーロウが叫ぶより先に、ミラベルが走っていた。
獣の頭の前に回りこむと、左の金属の手を、額の黒い石に押し当てた。肉の右手は、腰の後ろに回したままだった。
獣の頭が、止まった。
四本の脚が、土を掻いた。それでも、獣の体は、ミラベルの左手一本の前で、一センチも前へ出なかった。
ミラベルの灰色の髪の先が、ちりちりと縮れた。
ロズリンが、帳面を抱えて駆けてきた。寝間着の上に、上着を引っかけていた。
『腹は、割らないでください!』
「割らない!」
ミラベルが、振り向かずに叫んだ。
『東から来る獣は、腹に昔の粒を溜めています。濡れた粒が、いっぺんにほどけたら、この列ごと、なくなります』
「分かってる。…でも、これ、ずっとは、やだ。熱い」
マーロウは、鉤で左の手のひらを突いた。
獣が、口を開けた。喉の奥が、白く光っていた。熱い息が、吐き出された。
マーロウは、その口めがけて、手のひらの血を振った。
血は、届かなかった。獣の口の手前で、赤い滴が、黒い粉になって散った。
ミラが、マーロウの横に来ていた。金属の目を、細めていた。
『血、途中で、乾いた』
「どこなら、濡れてる」
『口の、奥。舌の根もと。粒が、いっぱい、光ってる。…熱は、そこから、出てる』
「濡れたまま、届けばいいんだな」
『管だ!』
ネルだった。道具袋に手を突っこみながら、走ってきた。
取り出したのは、指ほどの硝子の管だった。木の栓がついていた。前にミラベルのために血を詰めた管と、同じものだった。ネルの道具袋には、あの日から、空の管がいつも入っているらしかった。
マーロウは、突いた手のひらを、管の口に押し当てて握った。赤いものが、管の底に溜まった。ネルが、栓を叩きこんだ。
「口を、開けとけるか」
マーロウは、ミラベルに叫んだ。
『開けとく。…でも、坊やは、来ないで』
「投げるのは、おれだ」
ミラベルは、それ以上、言い返さなかった。
左手を、額から上顎の石の縁にかけかえた。片足で、獣の下顎を踏みつけた。ブーツの底から、煙が上がった。
それから、上顎を、持ち上げた。
獣の口が、開ききった。白い光が、夜を焼いた。
マーロウは、その光に向かって、走った。
顔の皮膚が、ひりついた。袖が、くすぶった。痛みは感じない体だった。熱さだけは、分かった。
口の縁で、足を止めずに、管を投げこんだ。
喉の奥で、硝子の割れる音がした。
白い光が、揺れた。
それから、消えた。
獣の背中の割れ目から、赤が一つずつ消えていった。
陽炎が、薄くなった。四本の脚が折れ、獣は、腹を地面につけて、動かなくなった。浅い息だけが、残っていた。
『首なら、いい?』
「首なら、いい」
ミラベルは、剣を抜いた。一度だけ振った。
獣の首が、腹から遠いほうへ、転がった。
それから、ミラベルは、剣を放り出して、マーロウの両手首をつかんだ。
マーロウの両腕は、袖が焼け落ちて、赤くなっていた。水ぶくれが、いくつもできていた。
『坊やに、触らないでって、言ったのに。…熱でも』
「触りに行ったのは、おれだ」
『もっと、やだ』
ミラベルは、マーロウの腕に、ふうふうと息を吹きかけた。焦げた髪の先が、マーロウの手に当たった。
「…おまえが先に、あの熱の中にいた」
マーロウは、言った。
「おれが行かないで、どうする」
ミラベルは、吹くのをやめた。それから、マーロウの焼けた腕に、額を押しつけた。
ティルダが、灯りの下で、帳面に書いていた。
帝国暦三四九年、夏の初め。東の列に獣。焼けた杭、十四本。けが人、一名。一〇六番の、両腕。
夜が明けたとき、獣の背中のそばに、若い女が一人、しゃがんでいた。
灰色の服。エミル・ハーグレイヴだった。孤独の大地から歩いてきた、二百八十九人の一人。
エミルは、背中の黒い石を、小石で割っていた。割れた内側は、白かった。うっすらと、赤みがあった。
エミルは、指先でその白いものをすくって、舐めた。
マーロウが近づいても、エミルは顔を上げなかった。
『…塩、です』
マーロウが何も訊かないうちに、エミルは言った。
『背中の石は、焼けて固まった、塩です。…東の谷の、塩です。谷の塩は、少しだけ、赤い』
「谷の塩だと、分かるのか」
『毎日、掘っておりました』
エミルは、ようやく顔を上げた。東の空を見ていた。
『母が、おります。谷に』
第一章 了