海壁

第二十九章

父さん

挿絵:父さん

それから三晩、土を掘る獣は、一頭ずつ来た。

ルーカスが、夜ごと、壁に耳を当てて、聞いた。どこから、どのくらいの深さで、壁のどのあたりへ。聞いたとおりの場所で、ベルが板を外し、ミラベルが中へ入り、獣の頭をつかんで引きずり出した。外では、ドラグが、壁の兵を並べて待っていた。マーロウの手のひらが、一晩に一度ずつ、赤くなった。

四頭目を引きずり出した夜、ルーカスは、壁から耳を離して、言った。

『…もう、来ません。乾いた底の下が、静かです』

ミラベルが、泥だらけのまま、両手で丸を作った。


次の日の午後、ニムの店の二階で、ウィラが、帳面を開いていた。

ロズリンにもらった、小さな帳面だった。いちばん最後の頁に、三行、書いてあった。

父、ハロルド・ドーセット。母、エマ・ドーセット。

父、マーロウ・ケイン。

ウィラは、筆を持ったまま、長いこと、その三行を見ていた。

マーロウは、窓の横に座っていた。ミラベルは、マーロウの足もとで、ウィラの背中を見ていた。

ウィラが、筆を置いた。

『…マーロウのほうの父さん』

「なんだ」

『のほう、って、もう、つけなくていい?』

マーロウは、すぐには、答えられなかった。

ウィラは、帳面から顔を上げなかった。

『父さんは、全部返すって言った。…返されたんだから、もう、のほう、じゃなくて、いいでしょ』

ウィラの声が、少し、震えていた。

『ハロルドのことも、父さんって、呼ぶよ。ずっと。…でも、ここにいる父さんは、一人だから』

マーロウは、窓の外を見た。東門の外の丘に、白い花の木が、見えていた。

「…好きに呼べ」

ウィラの肩が、少しだけ、落ちた。

マーロウは、続けた。

「…父さん、で、いい」

ウィラが、顔を上げた。

目が、真っ赤だった。それでも、笑っていた。

『…父さん』

「ああ」

『父さん』

「二回言うな」

『三回言う。…父さん』

マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。

十六度目だった。

ウィラは、その手の下で、帳面の最後の頁に、もう一行、書き足した。

父さん、と呼ぶことにした。帝国暦三四九年、夏。


ミラベルが、足もとから、ウィラの顔を見上げていた。

『…あたしは?』

「え」

『坊やが、父さんでしょ。…あたしは、なんて呼ぶの』

ウィラは、少し考えた。

それから、にやっと笑った。

「うるさい人」

『また、それ!』

ミラベルが、床の上で、じたばたした。畑でも、同じことを言われた。

ウィラは、笑いながら、ミラベルの頭を、両手でわしわしと撫でた。

「うそ。…ミラベル」

『…名前?』

「名前は、呼ばれるためにあるんでしょ。ミラベルが、そう言ったんだよ」

ミラベルは、じたばたをやめた。

ウィラの手の下で、しばらく、じっとしていた。

それから、小さく言った。

『…うん。そう言った』


夕方、ミアが、帳面を持って、ニムの店の一階に降りてきた。

『二回目の婚礼の、日取り』

ミアは、言った。

『ウィラが、決めてって言うから。…三日後の、日暮れ。丘の上。白い花の木の前』

ガスが、店の奥から、顔を出した。

「乾杯は、三回だからな!」

『知ってる』

ミアが、ガスのほうを見ずに言った。

『三回目が、長いのも、知ってる』

ニムが、杏の籠を、棚から下ろした。三つ、数えて、それから、もう三つ足した。

ヴェスタが、根の酒の瓶を、机の上に、どんと置いた。

「飲むのは、終わってからだ。…縫うのは、いつでもできる」

ガルドは、店の戸口に立ったまま、何も言わなかった。左手で、自分の顎を、撫でていた。

ベルが、ミラベルの横に来ていた。

『婚礼の日、私は、どこに立てばいいですか』

「ベルは、あたしの横」

ミラベルは、即答した。

「妹だもん。姉ちゃんの横」

ベルは、少しのあいだ、動かなかった。

それから、言った。

『…胸の内側が、軽くなりました』

「嬉しい、ってこと」

『はい。…今日は、それです』


その夜、納屋の藁の上で、ミラベルが、マーロウの顔を覗きこんでいた。

『坊や』

「なんだ」

『嬢ちゃんに、父さんって呼ばれたとき。…泣いてた?』

「泣いてない」

『うそ』

マーロウは、藁の天井を見た。ベルが毎月替えている藁だった。

「…少し」

ミラベルは、マーロウの胸に、そっと、頭をのせた。

『あたしも、少し、泣いた』

「知ってる」

『坊やの父さん、似合ってたよ。…すっごく』

第二十九章 了