海壁

第七章

坑を閉じる

挿絵:坑を閉じる

穴の縁から、低い声が落ちてきた。

『錘、継ぎ目だけだ。人には、かけるな』

ヴァルターだった。錘の兵たちが、縁に並んで、胸の錘を光らせた。

管の継ぎ目のまわりだけ、空気が重くなった。生えかけた指が、地面に押しつけられた。伸びる速さが、目に見えて、遅くなった。

ミラベルが、縁を振り仰いだ。

「今日も、いい重さ」

『褒めるな。調子が狂う』

それでも、指は、止まらなかった。遅くなっただけだった。

ヘルガは、娘の足首に巻きつく指を、素手で引きちぎり続けていた。塩でひび割れた手のひらから、血がにじんでいた。

「母さん、手が」

『塩で、とっくにひび割れてる手だよ。今さらだ』

ヘルガは、指を一本、投げ捨てた。

それから、娘の耳もとで、言った。

『エミル。坑を閉じるときは、どうするんだった』

エミルが、目を見開いた。

「…三本の線に、横に一本、引く」

すらすらと、口から出た。十の年に、母親に教わったことだった。変わっていたあいだも、どこかに、ずっと残っていた。

『そうだ。閉じた坑には、誰も入らない。うちの決まりだ』

エミルは、管の三本の線を見た。それから、首を振った。

「でも、この金属は、掘り棒じゃ、刻めない」

『あたしの剣なら、刻める』

ミラベルが、エミルの横に、しゃがんでいた。

『錆びない金属を切れるの、この剣だけだもん』

「でも、あなたが刻んだら、うちの線じゃ、なくなる」

『手を重ねりゃいい』

ヘルガが、言った。

『エミルの手で引いて、あんたが押しな。刻むのは、うちの子の手だ』


エミルは、左の手のひらを、管に当てたままにした。

右手で、名前のない剣の柄を握った。

その手の上から、ミラベルが、両手を重ねた。肉の右手と、金属の左手で。

『いい? エミルが、引くほうへ、あたしが、押す』

エミルは、三本の線の、上の端に、刃の先を当てた。

ミラが、エミルの左の手首を、木の指で押さえ続けていた。マーロウが、生えてくる指を、鉤で払っていた。ヘルガが、娘の背中を抱えていた。

管の継ぎ目から、指が一本、伸びてきた。ミラベルの足首に巻きついた。

ミラベルは、見もしなかった。足首を、ほんの少しひねった。金属の指が、ぽきりと折れた。

『続けて。…あたしは、動かないから』

エミルの手が、横へ、動いた。

ミラベルの手が、その動きのとおりに、押した。

錆びない金属に、一本の線が、走った。三本の斜めの線を、横切って。

継ぎ目の指が、いっせいに、動きを止めた。

それから、根もとから、ぱたぱたと倒れた。開いていた継ぎ目が、音もなく、閉じていった。穴の底の端から端まで。

エミルは、左手を、管から離した。

管は、鳴らなかった。

管の声が、した。

管を、閉じられました。

ハーグレイヴの閉じ方です。私には、開けられません。

東の砂の下の海の水は、ここから先へは、流れません。

「別の道を、掘るか」

マーロウが訊いた。

掘ります。

エミルが、管に向かって、言った。

『どこを掘っても、そこには、うちの印がついています』

白い字の代わりに、管の声は、少しのあいだ、黙っていた。

…計算します。


ヘルガが、娘を、正面から抱きしめた。血のにじんだ手で、背中を、ばんばんと叩いた。

「母さん。…閉じた」

『閉じたね』

ヘルガの声が、また、割れた。

『うちの子だ。…うちの子の手だ』

ヘルガは、娘の肩をつかんで、体を離した。それから、娘の顔を、じっと見た。

『あんたの掘り棒、墓から出してくる』

「…墓、掘り返すの」

『掘り返すほうが、掘るより、ずっといいさ。五年前、あたしは、あの墓を一人で掘ったんだ』

エミルは、しばらく母親の顔を見ていた。それから、塩でひび割れた母親の手を取って、自分の頬に当てた。

谷の者たちが、縄を伝って、次々に穴の底へ降りてきた。黙った管の横を、誰もが、一度は手で叩いていった。

ミラベルは、剣を鞘に戻して、マーロウの横に来た。自分の両手を、じっと見ていた。

「どうした」

『エミルの手、ちっちゃかった。あたしの手の中に、すっぽり入った』

「そうか」

『…あたしたちの子の手も、あのくらいかな』

マーロウは、少しのあいだ、答えなかった。

産めなくても欲しいと思うのは自由だ、とミラベルが言った日のことを、覚えていた。エルナの村の、井戸の前だった。

「…おまえの手に、似てりゃいい」

ミラベルは、目を丸くした。それから、マーロウの腕に、ぎゅっと、しがみついた。

そのとき、管が、もう一度、喋った。

皇帝の近衛へ。

ハーグレイヴの娘を、孤独の大地へ運んでください。帝国と、そう約束しています。

穴の縁で、ヴァルター・ブラントが、動かなくなった。

谷の者たちの目が、いっせいに、ヴァルターに集まった。

第七章 了