海壁

第三章

三枚の紙

挿絵:三枚の紙

ラーナが運んできた一枚目の紙には、ウィラの字が並んでいた。

帝国暦三四九年、夏の初め。海壁の街にて。

マーロウのほうの父さんへ。ミラベルへ。ミラへ。

手紙、読んだ。三回読んだ。字、ほんとに下手。ミラベルの言うとおりだった。

百倍を背負ったって、どういうこと。ミラベル、つぶれてない?

ベルは、毎朝、杭の数字を刻んでる。指の関節、一つ分。ずっと、一つ分。

壁の腕は、三本目が出た。三本とも、手が開いたまま。街の子どもが、開いた手に向かって、手を振ってる。

父さんは、杖を置いて、丘まで歩いた。草の汁は苦いって言いながら、毎朝飲んでる。

ミアは、全部書いてる。ガスは、乾杯を三回やった。三回目も、長かった。

待ってる。いちばん前で。

ウィラ・ドーセット・ケイン。


マーロウは、二度読んだ。

ミラベルが、肩の上から、覗きこんでいた。

『つぶれてないよって、返事、書こ』

「書け。おまえのほうが、速い」

二枚目は、角ばった、まっすぐな字だった。

ベルです。

ミラベル・グリム・ケインは、長い名前です。長いのは、嬉しいです。

杭の数字は、毎朝、刻んでいます。私が、決めたことです。

ミラベルは、その紙を取って、胸に押し当てた。

『…ベル、嬉しいって、書いてる』

「書いてるな」

『自分で、書いてる』

ミラベルの右目から、一粒、落ちた。


三枚目の字は、大きくて、震えていた。

クララへ。

兄さんは、海のそばにいる。

ルーカス・ストラウド。

マーロウは、その紙を持って、光る草のあいだへ歩いていった。

クララ・ストラウドは、いつもの場所に座っていた。灰色の服。草の汁の椀。

マーロウは、しゃがんで、紙を差し出した。

クララは、しばらく、紙を見ていた。それから、指で、一字ずつ、なぞった。

『…兄さんの、字です』

「分かるのか」

『兄さんは、昔から、字が、大きいんです。…紙が、足りなくなるくらい』

クララの口の端が、少しだけ、上がった。

それから、その端が、震えた。

クララは、紙を、椀と一緒に、両手で包んだ。長いこと、北の空を見ていた。


次の朝、ネルが、革の小袋をマーロウに渡した。

『空の管、十本。木の栓つき。血を入れたら、三日くらいは、もつ』

「助かる」

ネルの後ろで、オーウェンが、黙って立っていた。

『…栓は、おれが削った』

オーウェンは、それだけ言った。それから、もう一言、足した。

『割るなよ』

「割るための管だよ、親父」

ネルが、横から言った。オーウェンは、娘の顔を見て、少しだけ、口の端を上げた。

ロズリンが、帳面の白い頁を、何枚か切り取って、マーロウに渡した。

『何があったか、書いてきてください』

「おれの字は、遅い」

『遅くても、書いた字は、残ります』

「…分かった」

『二日で行って、二日で帰れ』

ドラグが、ロズリンの横で、腕を組んだまま言った。ロズリンの横から、一歩も動かずに。

ミラベルが、マーロウを背負った。ミラが、エミルを背負った。

エミルは、ミラの背中で、少し驚いた顔をしていた。

「…揺れません」

ミラは、息をしない体だった。


畑の光が背中のほうへ遠ざかると、草がなくなった。

東へ行くほど、地面は乾いていった。土がひび割れ、白い粉を吹いていた。昔の街の瓦礫が、ところどころ、砂から突き出ていた。

夜、瓦礫の陰で、小さな火を焚いた。

ミラとエミルは、少し離れたところで、横になっていた。

ミラベルは、膝を抱えて、火を見ていた。

『エミル、お母さんに、会えるね』

「会える」

『いいなあ』

ミラベルは、膝の上に、顎をのせた。

『…リーネさん。坊やのお母さん』

「ああ」

『あたし、会ってたのに。ちゃんと、言えなかった。坊やのこと、ください、って』

「あのころ、おまえ、おれに振られてただろ」

『振られてたもん。だから、言えなかったの』

マーロウは、火を見た。

母は、海壁の街で、十四日を過ごした。ニムの店で、豆を煮ていた。鍋の名前を忘れても、煮ていた。

「…言わなくても、たぶん、分かってた。母さんは、そういうのは、分かる人だった」

ミラベルは、しばらく黙っていた。

それから、立ち上がって、西の空を向いた。海壁の街のある方角だった。南の岩のそばに、リーネの石がある。

『リーネさん。ミラベル・グリム・ケインです。…坊やのこと、もらいました。毎朝、数えてます』

ミラベルは、ぺこりと頭を下げて、座り直した。マーロウの肩に、頭をのせた。

「…やる、って言ってる」

マーロウは、言った。

「たぶんな」


二日目の夕方、東の地平に、白い崖が二つ、見えた。

高さは、五十メートルほど。門の柱のように向かい合って、そのあいだに、細い谷が口を開けていた。崖は、夕日を受けて、うっすらと赤く光っていた。

ミラの背中で、エミルが、身を起こした。

『…谷です』

谷の奥のほう、ずっと東の端で、赤い光がいくつも、ゆっくり動いていた。

谷の西の口に、柵が組まれていた。その上に、帝国の旗が立っていた。

柵の前に、兵が並んでいた。胸に、丸い錘を下げていた。

その真ん中に、男が一人、立っていた。

短い灰色の髪。鼻の上を横切る、細い傷。右手にだけ、黒い革の手袋。

ヴァルター・ブラントだった。

第三章 了