第十三章
見えない刃

グレゴールが、翼を、一度だけ打った。
羽根の硝子の粒が、いっせいに、白く光った。
何も、見えなかった。音だけが、空を裂いて走ってきた。
船の手すりが、目の前で、斜めに切れて落ちた。甲板の板に、まっすぐな線が一本、走った。
伏せろ、と提督が、舵にしがみついて叫んだ。船が、大きく傾いて、谷の底のほうへ下がった。
ロズリンが、甲板に這いつくばったまま、帳面を抱えていた。ドラグが、その上に覆いかぶさっていた。
『硝子です!』
ロズリンが、叫んだ。
『羽根の硝子の中で、粒を濡らして、ほどいています。畑で、ヴァルターが、自分の錘の硝子を名代の工夫だと言いました。あれと、同じです。…ほどけた力を、風の刃にして、飛ばしています』
「血は、届かないってことか」
マーロウは、自分の手のひらを見た。硝子の中までは、届かない。
ミラベルが、傾いた船の縁から、跳んだ。
白い崖のてっぺんに降りた。塩が、足もとで、さらさらと崩れた。
グレゴールは、そのずっと上を、回っていた。錘の重さが届かない高さだった。谷の底で、ヴァルターが、左の肩を押さえて、空を睨んでいた。
グレゴールが、また翼を打った。
見えない刃が、ミラベルに向かって走った。
ミラベルは、左の金属の腕を、顔の前に上げた。刃が、金属に当たって、火花が散った。
一本は、弾いた。二本目も。
三本目が、右の腕をかすめた。肉の腕だった。袖が裂けて、赤い線が走った。四本目が、頬をかすめた。
「ミラベル!」
『へいき! かすっただけ!』
ミラベルの頬から、血が一滴、塩の上に落ちた。
マーロウの胸の奥が、冷たくなった。
ミラが、傾いた甲板の上で、金属の目を細めていた。
右の羽根の上から三列目が光る、次は左から二つ、とミラが叫んだ。ミラの声が、崖まで届いた。ミラベルが、左へ、体をずらした。見えない刃が、二つ、横を抜けていった。塩の崖に、線が二本、走った。
ケイルが、船の縁に立っていた。布を巻いた手で、切れた手すりをつかんでいた。
『グレゴール!』
空の影が、止まった。
一拍だけ、翼を広げたまま、宙に浮いていた。
それから、グレゴールは、向きを変えた。崖の上のミラベルではなく、船の上のケイルのほうへ。翼をたたんで、まっすぐ、落ちるように、突っ込んできた。
羽根の硝子が、光りはじめた。
船の上で、あれを撃たれたら、全員が切れる。マーロウは、そう思った。
突っ込んでくる途中で、グレゴールの体が、わずかに傾いた。風に流されたのを、立て直そうとした。
右の翼を、一度、畳んだ。
一拍、遅れた。
その一拍のあいだに、ミラベルが、崖を蹴っていた。
ミラベルの手が、空中で、グレゴールの足首をつかんだ。
そのまま、二人は、崖のてっぺんに落ちた。塩が、白く舞い上がった。
ミラベルは、グレゴールをうつぶせに押さえこんでいた。金属の左手を、二枚の翼のあいだ、背骨の上に置いて。翼には、指一本、触れていなかった。
グレゴールが、もがいた。動かなかった。
「動かないで。翼、斬らないって、約束したの」
グレゴールの黄色い目が、ミラベルを見上げた。
それから、その目が、翼の羽根を見た。
羽根の硝子が、全部、同時に、光った。
次の瞬間、崖のてっぺんで、風が、爆ぜた。
ミラベルは、一センチも、動かなかった。
動いたのは、崖のほうだった。風の刃が、四方へ飛んで、崖の縁を、ざっくりと削ぎ落とした。
崖の縁の戸口から、ゴブリンの子どもが一人、白い塩のかたまりと一緒に、落ちていくのが見えた。
ミラベルの左手が、一瞬、止まった。
それから、ミラベルは、グレゴールの背中から手を離して、崖の縁を跳んだ。
落ちていく子どもを、空中で、胸に抱えた。谷の底に、そっと降りた。
振り向いたとき、グレゴールは、もう、空にいた。
飛び方が、ぎこちなかった。翼の付け根の縫い目が、裂けていた。自分の風で、自分の縫い目を裂いたらしかった。背中から、血が、細く垂れていた。
それでも、グレゴールは、帝国の船の縁まで飛んで、そこにつかまった。
帝国の船と、提督の船が、谷の上で、向かい合った。
ケイルは、切れた手すりの前に、立ったままだった。
第十三章 了