第二十二章
塔の跡

船を出して二度目の日が傾きかけたころ、都が見えてきた。
提督の船から見下ろす都は、前と同じ、三重の丸だった。
違うのは、東の野だった。
倒れた塔の跡の北に、溝が何本も引かれていた。溝の両側で、麦が、腰の高さまで伸びていた。春には、指の長さほどしかなかった麦だった。風が吹くと、野原いっぱいに、緑の波が立った。
溝の横で、ドンが、膝を抱えて座っていた。光る水の体の中で、星が、昼でもゆっくり瞬いていた。
光の柱で降りると、ニコは、真っ先にドンの足元へ走った。水の指に、額を押しつけた。それから、地面に両手をついた。
『トンが、おかえりって』
ニコは、振り向いて、笑った。
『今日は、ケイルさんの大事な日だよって言ったら、トン、って一回だけ返ってきた』
約束の日暮れが、近づいていた。
塔の跡から、北へ一キロほど。ドンの座る野の手前に、低い丘があった。
ケイルは、その丘の上で、足を止めた。
『ここまでだ』
ドラグが、兄の前に立った。
「…分かっとる。丘までだ」
『声が届かん。それでええ』
ケイルは、弟の肩を、布を巻いていないほうの手で、一度だけ叩いた。それから、上着の内側の、布の包みを確かめた。パンが二つ。
ロズリンが、ドラグの横に立っていた。帳面を抱えて。
ケイルは、ロズリンを見て、少しだけ笑った。
『妹。…弟を、頼む』
「頼まれなくても、見ています」
ケイルは、丘を下りていった。袖の短い上着の背中が、腰の高さの麦のあいだを、まっすぐ、塔の跡へ向かっていった。
マーロウは、ミラベルの横に座った。ミラが、その反対側に座った。誰も、口をきかなかった。
日が、西の壁に触れたとき、南の空から、翼が一つ、下りてきた。
金色がかった茶色の、グリフォンの翼。付け根の縫い目は、縫い直してあった。羽根の硝子の粒が、夕日を受けて、きらきらと光っていた。
グレゴール・ヴァーンは、塔の跡の瓦礫の前に降りた。
それから、翼を、背中に、きっちりと畳んだ。
ケイルは、瓦礫の石の上に、布の包みを置いた。それから、グレゴールに向き直った。
丘の上からは、声は聞こえなかった。二人の口が動くのだけが、小さく見えた。
それから、二人は、同時に、踏みこんだ。
剣も、翼も、なかった。
グレゴールの拳が、ケイルの胸を打った。ケイルが、一歩下がった。グレゴールの厚い胸と、太い腕。拳は、重かった。
ケイルが、低く入った。グレゴールの腰に組みついた。グレゴールは、倒れなかった。ケイルの背中に、肘を落とした。
ドラグが、丘の上で、拳を握りしめていた。爪が、手のひらに食いこんでいた。
『…兄貴の、右手』
ドラグが、低く言った。
グレゴールが、ケイルの布を巻いた右手を、狙っていた。三度目で、当たった。布に、赤いものが広がった。ケイルが、膝をついた。
ミラベルが、腰を浮かせた。
「座ってろ」
マーロウが、言った。自分の声が、少し、震えていた。
『…でも』
「ケイルが、丘までだと言った」
ミラベルは、座った。マーロウの手を、骨が鳴るほど、握った。
グレゴールの動きは、ケイルに、よく似ていた。
踏みこみ方。肩の入れ方。拳を引く速さ。何百回も、下から見上げて、腕で真似した男の動きだった。
ケイルは、それを、一つずつ、受けていた。自分の動きだった。どこから来るか、知っていた。
グレゴールが、大きく踏みこんだ。右の肩を、わずかに、引いた。
翼を畳む癖だった。
背中の翼ではなかった。地面の上でも、体が、それを覚えているのだろう。マーロウには、そう見えた。
一拍、遅れた。
ケイルが、その一拍のあいだに、グレゴールの腕を取った。腰を入れた。
グレゴールの体が、宙に浮いた。ケイルの肩越しに、大きく弧を描いて、瓦礫の手前の土に、背中から落ちた。
丘の上で、ドラグが、息を吐いた。
『…おれの、投げだ』
ドラグの得意な投げだった。組むのはおまえのほうが上手い、とケイルは畑で弟に言っていた。その兄が、いつ、弟の投げを覚えたのか。マーロウには、分からなかった。
グレゴールは、仰向けのまま、動かなかった。
ケイルが、その横に、膝をついていた。肩で、息をしていた。
グレゴールの口が、動いた。丘の上からは、声は聞こえなかった。
ミラが、金属の目を、細めていた。
「なんて言った」
マーロウが訊いた。
『負けました、将軍、って』
ミラが、言った。ロズリンが、それを、帳面に書いた。
ケイルが、瓦礫の石の上から、布の包みを取った。
包みをほどいて、いびつなパンを、グレゴールの顔の前に差し出していた。
第二十二章 了