海壁

第二十六章

いちばん前

挿絵:いちばん前

船を出して四日たった朝、北の地平に、灰色の線が見えた。

高さ二十二メートルの、海壁だった。

その向こうに、海が、見えなかった。

船が近づくにつれて、見えてきた。壁の外の禁止区の、さらに外。かつて波打ち際だったところから、乾いた底が、帯のように、どこまでも広がっていた。海は、そのずっと先に、細い青い線になって、光っていた。

乾いた底に、杭の列が、一本の糸のように、延びていた。ベルの杭だった。杭は、海を追いかけて、壁から、見渡すかぎり、打ってあった。

杭の列のところどころに、錆色の大きなものが、横たわっていた。獣の死骸だった。五つ。六つ。

壁の南の端の石が、黒く焦げていた。

ミラベルが、船の縁をつかんでいた。金属の指が、縁に食いこんでいた。


船は、東門の外に降りた。

門の前に、人が立っていた。

いちばん前に、ウィラが立っていた。

赤茶の髪。十六の、痩せた体。走ってはこなかった。腕を下ろしたまま、船の腹が開くのを、まっすぐ見ていた。

その後ろに、帳面を抱えたミア。ベル。ガスと、オットと、サム。ガルド。グロム。ニムと、ヴェスタ。

ハロルドの姿は、なかった。

マーロウは、船から降りた。ウィラの前まで、歩いていった。

ウィラの唇が、動いた。

『…遅い』

声が、割れていた。

『マーロウのほうの父さん。…遅いよ』

「…ハロルドは」

ウィラは、答えなかった。

答えられずに、マーロウの上着を、両手でつかんだ。額を、マーロウの胸に、押しつけた。

それで、分かった。


話したのは、ミアだった。帳面を開いて、一行ずつ、読んだ。

帝国暦三四九年、夏。海が、朝ごとに、指の関節、十、引くようになる。ベルが、杭で測る。

乾いた底から、獣が出る。十日で、八頭。グロム・ハルヴァーと壁の兵が、人の前に立つ。

三日前の夜、獣が三頭、いっぺんに、壁を越える。一頭が、樽屋の並びへ降りる。

樽屋の蔵に、子どもが十一人、寝ていた。獣の出る夜は、子どもを壁から遠い蔵に集めて寝かせると、ハロルド・ドーセットが決めた。

ミアの声が、そこで、止まった。

ミアは、唇を噛んで、次の行を読んだ。

ハロルド・ドーセット、杖を捨て、蔵の戸口に立つ。ここから先は通さん、と言う。

獣が、海の水を噴く。ハロルドが、戸口で、全部、浴びる。子ども、十一人、一人も、濡れなかった。

獣の前脚が、ハロルドを打つ。ハロルドは、戸口から、一歩も、動かなかった。

グロムの兵が着いて、獣を倒す。

ヴェスタが、ハロルドの体の海の水を、全部拭いてから、娘を呼ぶ。

ミアは、帳面を閉じた。

閉じたまま、言った。

『…あたし、ぜんぶ、書いた。一行も、落とさなかった』

ガスが、ミアの肩を、後ろから抱いた。何も言わなかった。三回、話す男が、一回も、話さなかった。


ウィラが、マーロウの胸から、顔を上げた。

目が、真っ赤だった。

『父さん、朝まで、生きてた』

ウィラは、言った。

『あたし、ずっと、手、握ってた。…父さん、ずっと、しゃべってた。下手な子守唄も、歌った』

「ああ」

『それでね。マーロウのほうの父さんに、言えって』

ウィラは、息を吸った。

『半分返すと言ったが、全部、返す。…あの男に、そう言え、って』

マーロウは、何も言えなかった。

畑から、ウィラをしばらく借りていく、とハロルドは言った。返せ、とマーロウは言った。半分なら返す、とハロルドは、東門の前で言った。

『それから、エマに、桶を落とさせてくる、って。…嬉しいとき、母さん、桶を落としたから』

ウィラは、笑おうとした。笑えなかった。

『最後に、ウィラ、って言った。…それで、終わり』

マーロウは、ウィラの頭に、手を置いた。

十五度目だった。数えていたのは、ウィラのほうだった。

「…いちばん前で、待ってたんだな」

ウィラは、その手の下で、声を上げて、泣いた。

ミラベルが、ウィラを、後ろから抱きしめた。金属の腕と、肉の腕で。ウィラの背中ごと、マーロウの腕の中に、包みこんだ。

『…嬢ちゃん』

ミラベルの声も、震えていた。

『あたし、今度も、間に合わなかった』

「ミラベルのせいじゃない」

ウィラが、泣きながら、言った。

「誰のせいでもない。…父さんが、自分で、戸口に立ったの」


東門の外の丘に、白い花の咲く木があった。

その根元に、白い石が、二つ、並んでいた。

一つは、エマの石。もう一つは、昨日、置いたばかりの石だった。

どちらにも、字は、刻まれていなかった。

ベルが、マーロウの横に来ていた。

『一〇六番』

ベルは、いつもの、抑揚のない声で言った。

『杭の数字です。朝ごとに、指の関節、十。このままなら、秋の終わりには、この壁の上から、海は見えなくなります』

ベルは、少しだけ、黙った。

『…ハロルドは、毎朝、ここへ来るとき、杭の数字を、私に訊きました。今朝は、訊く人が、いませんでした』

ベルの手が、白い石の上に、そっと、置かれた。

『これは、何ですか』

誰も、すぐには、答えられなかった。

第二十六章 了