海壁

第八章

番の仕事

挿絵:番の仕事

ヴァルターは、しばらく、黙っていた。

二十六人の兵が、横目で、隊長を見ていた。谷の者たちは、息を止めていた。ミラベルが、エミルの前に、半歩、出た。

ヴァルターは、穴の底の管を、見下ろした。

『本部』

声は、いつもどおり、低くて、よく通った。

『私は、皇帝の近衛だ。本部の近衛ではない』

皇帝は、約束しました。

『陛下が私に下された命は、谷の塩を守れ、だ。塩を掘る者を、谷から出せとは、聞いていない』

管は、少しのあいだ、黙った。

皇帝に、そう伝えます。

『伝えろ。私も、書く』

ヴァルターは、それだけ言って、穴に背を向けた。

兵の一人が、隊長の背中を見て、胸の錘から、そっと手を離した。ほかの兵も、それにならった。

ミラベルが、縁の下から、声をかけた。

「…あんた、今の、自分で決めた?」

ヴァルターは、足を止めた。振り向かなかった。

『近衛は、命に従う。…命の読み方は、近衛が決める』

「帝都に戻ったら、どうなるの」

『しくじった近衛が、もう一度しくじった。そう書かれる。それだけだ』

ヴァルターは、少し黙った。

『名代が断った理由が、少しだけ分かったと、畑で言ったな』

「言った」

『今は、半分くらいだ』

ヴァルターは、兵を連れて、西の口の柵のほうへ戻っていった。


昼過ぎ、エミルが、マーロウを崖の中ほどの戸口へ連れていった。

中で、痩せた女が一人、塩の袋を縫っていた。人間。白髪を後ろで小さくまとめ、指先に、針の跡がいくつもあった。

塩の袋を縫う家。マーシュの家だった。

女は、エミルを見て、針を落とした。

『ハーグレイヴの…エミルちゃん? 熱で、死んだって…』

「帰りました。…マーシュのおばさん。この人が、話があります」

エミルが、横にずれた。

『…あんたは』

マーロウは、女の前に、しゃがんだ。

「マーロウ・ケイン。…トビー・マーシュは、生きてる」

女の手が、膝の上で、止まった。

『…あの子は、一年半前の冬に、熱で。施療所で』

「共和国の畑にいる。名前を呼ぶ仕事をしてる。帝国の兵を、名前で止めた。何百人もな」

女は、何も言わなかった。

「おれが言うのは、生きてる、ってとこまでだ。あとは、本人が、言いに来る」

女は、膝の上の縫いかけの袋を、両手で握りしめた。

それから、笑った。泣きながら。

『…あの子は、昔から、言いに来るのが、遅い子でねえ』

女は、縫いかけの袋の口を、マーロウに見せた。端に、小さな結び目が、三つ並んでいた。

『あの子が縫う袋は、いつも、口の端に結び目が三つあったんだよ。…いなくなってからも、あたしの手が、勝手に三つ、作っちまう』

「なら、三つのまま、待ってろ」

女は、何度も、頷いた。


夕方、エミルが、ヘルガと並んで、マーロウの前に立った。

エミルの腰に、古い掘り棒が差してあった。先の丸くすり減った、鉄の棒だった。

『わたしは、谷に残ります』

エミルは、言った。

『母と、塩を掘ります。閉じた管の上で。…十二人がそろう日には、行きます。誰にも、言われなくても』

「待ってる」

マーロウは、言った。

ヘルガが、娘の肩を、ぐいと抱き寄せた。

『この子は、言ったことは、やる子だよ。十の年から、ずっとね』


夜、ヘルガの家の塩の床で、マーロウは、ロズリンからもらった白い頁を広げた。

塩の灯りの下で、一字ずつ、書いた。遅かった。

ミラベルが、横で、頬杖をついて見ていた。

帝国暦三四九年、夏の初め。東の谷。

でかい獣、一匹。小さいの、四十三。ミラベルが、でかいのを谷の外に投げた。

ヴァルターの重さ、いい重さ。

『それ、あたしが言ったやつ』

「書いた」

東の砂の下の海から、本部が水を引いていた。その管を、エミルが閉じた。十二のうち、三。

エミルは、谷に残る。

マーロウ・ケイン。

ミラベルが、筆を取った。下に、さらさらと書き足した。

ミラベル・グリム・ケイン。坊やは、ゆうべも焼けました。治りました。

「余計なことを書くな」

『余計じゃない。いちばん、大事なこと』

ミラベルは、頁を折りたたんで、マーロウの胸の内側に、しまった。

それから、その上に、手のひらを置いた。

『…坊やの心臓、ここ』

「知ってる」

『毎晩、確かめてるの。知らなかったでしょ』

マーロウは、知らなかった。


次の朝、谷の西の口で、ヴァルターが、柵の前に立っていた。

マーロウが通りすぎるとき、ヴァルターは、前を向いたまま、言った。

『陛下は、本部との約束を破られるのが、いちばん、お嫌いだ』

「あんたが破ったんだろ」

『だから、次に何かが来るなら、ここだ。…畑へは、行かせん』

ミラベルが、マーロウを背負った。ミラは、背中が空いていた。

崖の上から、エミルとヘルガが、手を振っていた。エミルは、掘り棒を、高く上げていた。

第八章 了