海壁

第二十三章

翼は、取るもんじゃない

挿絵:翼は、取るもんじゃない

ケイルが、立ち上がった。

丘のほうを向いて、布を巻いた右手を、大きく一度、振った。

来い、という合図だった。

ドラグが、真っ先に、丘を駆け下りた。ロズリンが、帳面を抱えて、その後ろを走った。ミラベルは、マーロウの手を引いて、走った。ミラが、それを追い越していった。

麦のあいだを抜けて、塔の跡へ着いたとき、二人は、瓦礫の石に、並んで座っていた。

グレゴールは、いびつなパンを、両手で持っていた。


「…形が、悪いですね」

グレゴールが、言った。

『おれが焼いた』

「将軍が」

『習った。二つ、しくじった』

グレゴールは、パンを、一口かじった。噛んで、それから、しばらく、動かなかった。

「…しょっぱいです」

『塩を、入れすぎたか』

「違います」

グレゴールの目から、落ちたものが、パンに染みていた。グレゴールは、それを拭わずに、もう一口かじった。

ケイルは、自分のぶんの包みを、上着の内側に戻した。

『おれのは、あとで食う』

グレゴールは、パンを見たまま、訊いた。

「なぜ、翼を取らなかったのです。あの夜も。今日も。投げたあとなら、いつでも取れた」

『翼は、取るもんじゃない』

「…あなたは、取られました」

『取られた。だから、言う』

都の牢で、二人は、同じことを話したことがあった。二人とも、少しだけ、笑った。

「…帰っても、いいのでしょうか」

グレゴールが、言った。

「都に」

『パンが余る』

ケイルは、言った。

『毎日な』


ドラグが、二人の前で、足を止めた。

グレゴールを見下ろして、しばらく、何も言わなかった。グレゴールは、顔を上げなかった。

『投げ、借りたぞ』

ケイルが、弟に言った。

「貸した覚えはない」

『兄貴の特権だ』

ドラグは、ふん、と鼻を鳴らした。それから、兄の横に、どさりと腰を下ろした。グレゴールとは、兄を挟んで反対側だった。

ロズリンが、少し離れて、帳面を開いていた。ミラが、その横で、瓦礫の上にしゃがんでいた。

マーロウは、ミラベルと並んで、三十歩ほど手前で、足を止めていた。

そこから先は、兄弟と、その弟分の場所だと思った。

ミラベルが、マーロウの手を、ぎゅっと握った。

「…終わったな」

『…よかったね』

「ああ」

『ケイル、勝ったし。パン、食べてもらえたし』

ミラベルの声が、少し、湿っていた。


そのとき、グレゴールの背中で、何かが光った。

畳んだ翼の、羽根の硝子の粒だった。一つ。二つ。十。それから、全部。

グレゴールが、自分の肩を振り返った。

「…何です、これは」

グレゴールの顔から、血の気が引いた。

「私は、何も。…翼は、使わないと」

ロズリンの帳面が、手から落ちた。硝子の中の粒が、全部、一度にほどけかけている、とロズリンがかすれた声で言った。

ミラが、金属の目を見開いた。羽根の一枚一枚が、白く、膨らんでいくのが、マーロウの目にも見えた。

帝国の最後の工夫だ、とマーロウは思った。近衛が負けたときのための。本人には、知らせずに。

誰よりも先に、ケイルが、動いた。

グレゴールの背中に、布を巻いた右手をかけた。翼の付け根の、縫い直したばかりの縫い目に。

『すまん』

ケイルは、言った。

『取るぞ』

グレゴールが、叫んだ。

縫い目が、裂けた。ケイルは、白く膨らむ二枚の翼を、両腕で抱えこんで、三歩、グレゴールから離れた。それから、翼を抱えたまま、地面に、うつぶせに身を投げた。

ミラベルが、マーロウの前に、跳んでいた。両腕を広げて。考えるより先に、体が、そう動いていた。

白い光が、ケイルの体の下から、あふれた。

音は、あとから来た。

風が、麦を、根元から薙ぎ倒した。ミラベルの髪が、うしろへ吹き流された。ミラベルは、一センチも、動かなかった。

光が、消えた。

ケイルの体の下の地面が、丸く、硝子になっていた。

グレゴールが、翼のなくなった背中から血を流しながら、這っていた。土の上を。ケイルのほうへ。

ドラグは、動けずに、座ったままだった。

ケイルは、あお向けになっていた。自分で、転がったのだろう。マーロウには、そう見えた。

目が、開いていた。

這ってきたグレゴールが、ケイルの顔の上に、覆いかぶさるように、膝をついた。

ケイルの目が、グレゴールを、下から、見上げていた。

第二十三章 了