海壁

第十五章

婚礼

挿絵:婚礼

次の朝、ヘルガの家の塩の床で、ミラベルが、腕を出していた。

右の肉の腕に、赤い線が一本。頬にも、一本。

ヘルガが、太い針に糸を通していた。

『塩の袋も、人の皮も、縫い方は、たいして変わらないよ』

「変わってくれ」

マーロウが言うと、ヘルガは、鼻で笑った。

ミラベルは、マーロウの手を、左の金属の手で握っていた。針が肉に入るたびに、肩をすくめた。

『…くすぐったい』

「痛いんじゃないのか」

『痛いのは、あんまり、わかんない。くすぐったいの。ヴェスタに縫われたときも、そうだった』

ヘルガが、腕を七針、縫った。頬は、三針。

マーロウは、縫い終わるまで、ミラベルの手を放さなかった。握る力が、少しずつ、強くなっていった。

『坊や、手、痛い』

「…すまん」

マーロウは、力を抜いた。それでも、放さなかった。

「おまえの頬に、線が入った」

『すぐ消えるよ。たぶん』

「消えなくてもいい。…おまえの頬に、ほかのやつの付けた線があるのが、いやなだけだ」

ヘルガが、針を置いて、わざとらしく横を向いた。

ミラベルは、縫いたての頬を、マーロウの肩に押しつけた。

『…今の、もう一回、言って』

「言わない」

『けち』


崖の下で、ケイルが、ミラベルを待っていた。

『一番。…礼を言う。翼を、残してくれた』

「約束したもん」

ミラベルは、縫った頬を、指でなぞった。

「でも、あの人、自分で自分の縫い目、裂いてたよ。風で」

『知っとる。あいつは、昔から、そういうやつだ。…自分で自分を傷つけて、気づかんふりをする』

ケイルは、布を巻いた自分の手を見た。

『おれに、似とる』


船の前に、全員が集まった。

提督が、手のひらに、指で数字を書いていた。

『谷から畑まで、半日。畑から都まで、一日半。九日後の日暮れまでには、余る』

「一度、畑に戻る」

マーロウは、言った。

「預けてる者がいる。ニコも、畑にいる」

ケイルが、頷いた。

『都には、おれ一人で入る。おまえらは、来んでいい』

ドラグが、腕を組んだ。

「塔の跡には、行かん」

ドラグは、言った。

「塔の見える丘に、おる。兄貴が負けそうになっても、手は出さん。…ただ、見とる」

ケイルは、弟の顔を、長いこと見ていた。

『…丘まで、だな』

「丘までだ」

ロズリンが、帳面に書いた。

隊長、丘まで、と言う。お兄さんは、それを許す。

ミラベルが、マーロウの袖を引いた。

『坊やは、どうするの』

「都へ行く。塔には、行かん。ドラグの丘の横に、座ってる」

『じゃあ、あたしも、その横』

「当たり前だ」

ミラベルは、縫った頬を、少しだけ、ゆるめた。


谷の西の口で、ヴァルターが、包帯を巻いた肩のまま、柵の前に立っていた。

「十隻来たら、どうする」

マーロウが訊いた。

『数える』

「数えて、どうする」

ヴァルターは、少し黙った。

『一番が近くにいれば、十隻でも、数えやすい。…それだけだ』

「…覚えとく」

頼む、とは、ヴァルターは言わなかった。マーロウは、それで十分だと思った。

柵の陰から、ゴブリンの子どもが一人、走ってきた。崖から落ちて、ミラベルに抱きとめられた子だった。耳が大きく、目がまんまるだった。

子どもは、ミラベルの前で止まると、握っていた手を開いた。

小さな、赤みがかった塩のかけらが、のっていた。

子どもは、ありがと、とだけ言って、母親のほうへ走って戻った。

ミラベルは、塩のかけらを、長いこと見ていた。それから、帯のあいだの板切れの横に、大事そうに、しまった。

『…坊や。あたし、今、ちょっと泣きそう』

「泣いていい」

『泣かない。縫ったとこ、しみるもん』

「なら、我慢しろ」

崖の上から、エミルとヘルガが、手を振っていた。

エミルが、両手を口に当てて、叫んだ。

『トンさんに、どういたしまして、って!』

ニコに伝えておく、とマーロウは手を上げた。


船は、西へ飛んだ。

甲板の隅で、ロズリンが、帳面を抱えたまま、眠っていた。昨夜は、遅くまで書いていた。

ドラグが、その横で、動かずに座っていた。

それから、ドラグは、そっと立ち上がって、船の舳先のマーロウのところへ来た。

しばらく、黙って、横に立っていた。

「なんだ」

マーロウが訊いた。

ドラグは、眠っているロズリンのほうを、ちらりと振り返った。

それから、声を落として、言った。

『…婚礼ってのは、どうやるんだ』

第十五章 了