海壁

第十章

娘

挿絵:娘

ティルダは、札を胸に当てて、立ち上がった。

輪の中に、入っていった。横になっている人たちのあいだを、一人ずつ、顔を確かめながら。いつもの、きっちりした足取りではなかった。

マーロウとミラベルは、輪の端で、それを見ていた。

ティルダは、輪のいちばん奥で、足を止めた。

若い女が、横になっていた。人間。二十四、五。痩せて、背が高い。灰色がかった茶色の髪を、施療所で短く刈られたままだった。左の目の下に、小さなほくろがあった。

ティルダは、その横に、膝をついた。

長いこと、ほくろを見ていた。

『マリエ・ノーム』

女の閉じた瞼の下で、目が、一度、動いた。

一拍、止まった。

それから、唇が、かすかに動いた。

「…はい」

ティルダの手から、帳面が落ちた。

ティルダは、それを拾おうとした。指が、うまく動かなかった。帳面を開いた。筆を取った。筆先が、紙の上で震えて、字にならなかった。

いつの間にか、ロズリンが、ティルダの横に膝をついていた。ミラベルが、走って呼んできたのだった。

ロズリンは、何も言わずに、ティルダの手から、そっと筆を取った。帳面の新しい頁を開いて、待った。

ティルダは、ロズリンを見た。

いつかの夜、眠ってしまったロズリンの手から、ティルダが筆を取った。今夜は、逆だった。

『…帝国暦三四九年、夏の初め』

ティルダの声は、平らではなかった。

『監督官ティルダ・ノーム、娘を、見つける。名前、マリエ・ノーム。港の街。…わたくしが書いた札の中に、ございました』

ロズリンが、そのとおりに書いた。


ティルダは、娘の顔を、見下ろしていた。

『あなたが、五つの春でございました』

ティルダは、言った。眠っている娘に、話しかけるように。

『わたくしが、港の街から、運ばれたのは。記録には、娘、一名、在宅、とだけ、ございました。名前は、書いてございませんでした』

ティルダの指が、娘の短い髪に、触れかけて、止まった。

『…書いていなくても、覚えておりました。名前も、ほくろも』

ティルダは、ロズリンを見た。

『指示書に、書いてございません。…娘を、抱いてよい、とは』

「書いてありません」

ロズリンは、言った。

「でも、するな、とも、書いてありません」

ティルダは、長いこと、動かなかった。

それから、娘の体の下に、腕を差し入れた。細い体を、そっと、抱き起こした。胸に、抱えこんだ。

『書いていないことを、いたします』

娘の指が、ティルダの外套の袖を、かすかに、つまんだ。

ティルダは、それを見た。

それから、自分の頬に、手を当てた。濡れていた。

畑で、一の墓の前で泣いたとき、ティルダは、自分の涙に気づかなかった。今夜は、自分の手で、確かめた。

『預かります』

いつもの言葉を、ティルダは言いかけた。

それから、首を振った。

『…いいえ。待ちます。あなたが、帰るまで』

ロズリンが、その下に、一行、書き足した。

監督官、預かる、ではなく、待つ、と言う。

ロズリンの涙が、紙に一粒、落ちた。

ドラグが、いつの間にか、ロズリンの後ろに立っていた。大きな手を、ロズリンの背中に置いた。

「字が、にじむぞ」

『にじんでも、残ります』


輪の端で、ミラベルが、マーロウの手を、きつく握っていた。

『…十九年』

「数えたのか」

『数えた。坊やの、真似』

ミラベルは、鼻をすすった。

『ティルダ、名前、書いてなかったのに、覚えてた』

「書いてなくても、覚えてる。…変わっても、残ってる」

マーロウは、一のことを思った。三十年前の冬に死んだ母親の手が温かかったことを、変わっても、坑の底でも、ずっと覚えていた男だった。

ミラベルは、マーロウの手を、自分の胸に引き寄せた。

『あたしたちの子、拾ったら。どこかではぐれても、あたし、あんなふうに、見つける』

「おまえなら、見つける」

マーロウは、言った。

「おれより先にな」


次の朝、南の空に、船が一隻、見えた。

帝国の灰色の船ではなかった。共和国の、提督の船だった。

船は、畑の南の端に降りた。

甲板の上で、小さな影が一つ、両手を振っていた。

ニコだった。

その横に、背の高い女が立っていた。短い赤い髪。銀の鎧。左目のまわりに、グリフォンの羽根の模様。提督ヴァレリア・コルト。

提督は、腕を組んだまま、笑っていなかった。

第十章 了