第五章
塩の下の管

穴の底から、塩の床を押し上げて、獣が出てきた。
畑に来た獣と、同じ形だった。ただ、大きさが違った。長さは六十メートルほど。背中の焼けた塩が、真っ赤に光っていた。
獣が穴の縁に前脚をかけると、その下の塩が、黒く焦げて、ひびが走った。
熱が、崖まで届いた。戸口の簾が、次々に燃えた。崖の中の部屋から、人が逃げ出してきた。
「腹は割るな! 喉だ!」
マーロウは、崖の階段を駆け下りながら叫んだ。
『分かってる!』
ミラベルが、獣の前に回りこんだ。
だが、頭が、高かった。獣は首を持ち上げて、喉の奥の白い光を、崖のほうへ吐いていた。口は、崖の三段目の戸口と、同じ高さにあった。
『頭が高い。…引きずり下ろすと、腹が、崖にぶつかる』
「頭だけ、下がればいいのか」
『私が、下げる』
低い声が、横からした。
ヴァルターだった。胸の黒い錘に、手袋の右手を当てていた。
『百だ』
黒い錘が、光った。
獣の頭が、見えない手で叩き落とされたように、地面にめりこんだ。塩の床が、頭の形にへこんだ。
ミラベルが、ヴァルターを振り返った。
「今日のあんたの重さ、いい重さ」
『…褒められたのは、初めてだ』
ミラベルは、左の金属の手を、獣の上顎にかけた。持ち上げた。
白い光が、谷を照らした。金属の腕から、陽炎が立った。ミラベルが、歯を食いしばった。
ミラが、崖の上から叫んだ。
『粒、畑のより、ずっと、多い! 一本じゃ、足りない!』
マーロウは、鉤で左の手のひらを突いた。ネルの管を、三本、取り出した。一本ずつ、手のひらに押し当てて、握った。栓を、歯で押しこんだ。
走った。
熱が、顔を叩いた。髪の先が、焦げた。この前治ったばかりの腕が、また赤くなった。
一本目を、投げた。喉の奥で、割れた。光が、揺れた。
二本目。光が、暗くなった。
三本目。
白い光が、消えた。
獣の背中の赤が、端から消えはじめた。
それでも、獣は、止まらなかった。最後の力で、体を大きくよじった。重さに押さえられた頭を軸に、六十メートルの胴が、ぐるりと回った。
腹が、崖のほうへ振れた。
ヘルガの家のある、崖だった。戸口に、エミルとヘルガが立っていた。
腹が崖に当たる、とヴァルターが叫んだ。
『坊や! 二滴目!』
マーロウは、焼けた腕を伸ばした。鉤で人差し指を突いた。ミラベルが、振り向きざまに、その指を唇でくわえた。
胸の奥で、何かがはまる音がした。
金属の目が、白く光った。
次の瞬間、ミラベルは、獣の首の付け根を、両腕で抱えていた。腹には、指一本触れていなかった。
『…行ってくる』
六十メートルの体が、宙に浮いた。
崖まで、あと二メートルだった腹が、崖から離れた。
ミラベルは、獣を抱えたまま、谷の底を東へ走った。足音は、しなかった。塩の床に、一本の筋だけが走った。
息を一つつくあいだに、東の口を抜けた。
東の口の向こうの砂の上で、何かを投げる影が、小さく見えた。
白い光の屋根が、東の砂の上に、ふくらんだ。
遅れて、音が来た。風が、谷の中を、東から西へ吹き抜けた。崖の塩が、さらさらと鳴った。
ミラベルは、谷の東の口で、倒れていた。
マーロウは、ミラに背負われて、そこまで走った。ミラベルの唇が、白く乾いていた。
鉤で、中指を突いた。三滴目を、唇に落とした。
金属の目の光が、引いた。
『…今夜だけで、三回、突いた』
「数えてたのか」
『数えてる。…いつも』
ミラベルは、マーロウの赤い腕を見た。
『坊や、また、焼けてる』
「おまえの腕もだ」
ミラベルは、金属の腕を持ち上げた。肘のつなぎ目の肉が、赤くなっていた。
『谷、残った?』
「残った」
『エミルのお母さん、無事?』
「無事だ」
ミラベルは、目を閉じた。それから、金属の人差し指で、自分の唇を、とんとんと叩いた。
マーロウは、屈んで、そこに口を落とした。
「…おまえが、おれの嫁で、よかった」
ミラベルの目が、ぱちりと開いた。
それから、ミラベルは、砂の上で、三回、転がった。
夜が明けて、マーロウは、穴の縁に立った。
獣が出てきた穴の底に、塩の床の下に隠れていたものが、見えていた。
管だった。
錆びない金属の、太い管。太さは、荷車を三台並べたほど。穴の底を、東から北東へ、まっすぐ横切っていた。低い音が、そこから響いていた。去年の冬から、谷の者が夜ごとに聞いていた音だった。
管の継ぎ目の一つから、水が、じわりとしみ出ていた。獣は、そこに腹をつけて、眠っていたのだろう。マーロウには、そう思えた。
ミラが、金属の目を細めた。
『継ぎ目の奥、水が、流れてる。…北東へ』
孤独の大地の方角だった。
エミルが、縄を伝って、穴の底へ降りてきた。ヘルガが、縁の上から見下ろしていた。
「濡れてるところには、触るな。海の水だ」
マーロウは、言った。
『はい』
エミルは、継ぎ目の横の、乾いた金属の前に、しゃがんだ。
そこに、線が刻まれていた。
斜めの線が、三本。
エミルは、縁の上の母親を見上げた。
「…母さん。うちの、印」
エミルが、言った。
上から、ヘルガの声が降ってきた。
『ハーグレイヴの家は、掘った坑の壁に、必ず、その三本を刻むんだよ。…昔から。誰が始めたかも、知らないくらい昔から』
エミルは、乾いた金属に、手のひらを当てた。
管の低い音が、止まった。
一拍だけ。
それから、また、鳴りはじめた。
第五章 了