海壁

第二十章

二度目の井戸

挿絵:二度目の井戸

荷車に、馬を一頭つないだ。

畑の北東へ、半日。この春、塩を買いに行くと言って、同じ道を走ったことがあった。

ミラベルは、御者台で、マーロウの腕に、自分の腕を絡めていた。

『でーと。二回目』

「今度は、塩もいらんな」

『塩、買わないでーと』

「何を買う」

『なんにも。…見せびらかしに行くの』

ミラベルは、右の手首を、日にかざした。赤い紐と、交差の線を刻んだ木の輪。それから、マーロウの左の手首も、引っぱって並べた。


エルナの村は、春と同じだった。

家が三十ほど。真ん中の、石で囲った深い井戸。そのまわりの市。人間と、ゴブリンと、オークが、混ざって、並んで売っていた。

ミラベルは、今度は、市を一回しか歩かなかった。まっすぐ、布屋の前へ行った。

布屋のゴブリンの婆さんが、顔を上げた。

ミラベルは、何も言わずに、右の手首を、婆さんの目の前に突き出した。

婆さんは、目を細めた。赤い紐の結び目を、しわだらけの指で、つまんだ。

『…ほどけてないね』

「ほどけない。三回、結び直したもん」

『その上の、木のは』

「婚礼、した! みんなの前で!」

婆さんは、ミラベルの顔を見た。それから、マーロウの顔を見た。マーロウは、目を逸らした。

婆さんは、声を出して、笑った。歯が、三本しかなかった。

『名字は、もらったのかい』

「ミラベル・グリム・ケイン!」

『…長いね』

「長いの。いいでしょ」

婆さんは、紐の束から、赤い紐を一本抜いて、ミラベルの赤い紐の隣に、ゆるく巻いた。

『婚礼の祝いさ。ほどけても、一本、残る』


井戸の前に、あの若い女がいた。

腕の中の赤ん坊は、春より、ずっと大きくなっていた。自分で首を振って、あたりを見回していた。耳の先が、やっぱり、少し尖っていた。

赤ん坊が、ミラベルの金属の指を見た。

それから、手を伸ばして、握った。

『あら。覚えてるのかしら』

女が、笑った。横で、ゴブリンの夫が、照れたように鼻をこすった。

『抱いてみる?』

ミラベルは、今度は、マーロウを見なかった。

自分から、腕を出した。赤ん坊を受け取った。肘の角度も、手のひらの位置も、春とは違った。赤ん坊は、ミラベルの胸で、おとなしく指をしゃぶっていた。

『上手になったね、抱くの』

「練習したの」

ミラベルは、言った。

「…心の中で。毎晩」

女は、少しのあいだ、ミラベルを見ていた。

『子どもは』

「産めないの。あたしの体」

ミラベルは、あっさり言った。

「だから、いつか、拾うの。坊やと」

女は、頷いた。

『この村じゃ、拾われた子は、拾った人の顔に似てくる、って言うのよ。毎日、見てるから』

ミラベルは、赤ん坊の顔を見た。それから、マーロウの顔を見た。

マーロウは、今度は、目を逸らさなかった。


村の外れの旅籠の主は、あのオークの女だった。

二人の手首を見て、それから、木の輪を見て、黙って、鍵を一本、渡した。

それから、一言だけ、足した。

『婚礼の祝いだ。明日の朝の菓子は、倍にしとく』

二階の部屋は、春と同じだった。寝台が一つ。窓が一つ。窓の外に、井戸の屋根。

ミラベルが、灯りを消した。今度は、自分で。


夜更けに、ミラベルが、暗がりで、訊いた。

『坊や。婚礼の言葉。三日考えたって、ほんと?』

「…一日目の夜に、決まってた」

『え』

「言うことは、一日目に決まってた」

『じゃあ、あとの二日は、何してたの』

「言えるかどうか、考えてた」

ミラベルは、しばらく、何も言わなかった。

それから、マーロウの胸に、額を押しつけた。

『…言えたね』

「言えた」

『みんなの前で』

「ウィラの前で、もう一回言う」

『同じ言葉?』

「同じだ。変えたら、おまえが、ずるいって言う」

ミラベルは、暗がりで、くつくつと笑った。

『言う。絶対、言う』

窓の外で、井戸の滑車が、風に一度だけ鳴った。


朝、戸の外に、豆の菓子が置いてあった。四人ぶん。

ミラベルは、毛布を頭までかぶって、出てこなかった。

「倍だとよ」

『…知ってる。聞こえてた』

「出てこい。食え」

『この前より、恥ずかしくない』

毛布の中から、くぐもった声がした。

少しして、また、声がした。

『…うそ。もっと、恥ずかしい』

マーロウは、菓子を一つ、毛布の隙間から差し入れた。毛布の中で、ぱりっと、かじる音がした。

夕方、二人は、畑に戻った。荷車の上で、ミラベルは、ずっと、右の手首の二本の赤い紐を、指でなぞっていた。

第二十章 了