第六章
一拍

朝、ヘルガの家の塩の床の上で、マーロウは、左の人差し指を鉤で突いた。
ミラベルが、目を閉じて、その一滴を唇で受けた。
それから、マーロウの腕を取った。赤みは、半分ほど引いていた。
『二回目の焼けたとこ、まだ、治りきってない』
「昼には、治る」
『昼まで、あたしが、見張ってる』
ミラベルの左肘のつなぎ目も、まだ少し赤かった。マーロウは、そこに、親指を当てた。何も言わずに。
ミラベルは、その親指を、しばらく見ていた。
『…それ、ずるい』
「何がだ」
『何も言わないの。ずるい』
穴の縁に、谷の者たちが、集まっていた。
人間も、オークも、ゴブリンも、黙って、底の管を見下ろしていた。去年の冬から夜ごとに聞いてきた音の正体を、初めて見ていた。
ヴァルターも、兵を連れて、縁に立っていた。
エミルは、穴の底で、管の前に立っていた。母親より頭一つ小さい体で、夜明けに手を当てた場所を、じっと見ていた。
マーロウは、縄を伝って、底へ降りた。
『あの管は、何を、しているのですか』
エミルが、先に訊いた。
「東の砂の下に、海がある。本部が、その水を、孤独の大地へ引いてる。この管でな」
『だから、谷が、乾いたのですか』
「そうだ。上の土地が乾いて、獣が土の下の昔の粒を食うようになった。その獣が、明るい畑へ、この谷を通って出ていく」
エミルは、管の三本の線を見た。
『夜明けに、手を当てたら、止まりました。一拍だけ』
「おまえの手で、止まった」
『…止めたら、どうなりますか』
「東の海の水は、ここから先へは流れない。谷の下に、残る」
マーロウは、少し黙った。
「本部は、黙っちゃいないかもしれん。…それでも、決めるのは、おまえだ」
エミルは、穴の縁を見上げた。
母親が、そこにいた。腕を組んで、娘を見下ろしていた。
娘の目が、何かを訊いていた。
『あんたが決めな』
ヘルガの声が、穴の底まで、まっすぐ届いた。
『あたしは、横にいる。掘り棒を持ってね』
ヘルガは、縄をつかむと、五十を過ぎた体とは思えない速さで、底まで降りてきた。娘の横に立った。
エミルは、管の乾いた金属に、両手のひらを当てた。
目を閉じた。
「…止まって」
小さな声だった。誰かに言われた言葉では、なかった。
管の低い音が、止まった。
一拍では、なかった。二拍、三拍。十数えても、鳴りださなかった。
谷が、静かになった。
縁の上で、誰かが、息をのんだ。ゴブリンの子どもが、母親の服を引いた。
『…音が、ない』
オークの男が、つぶやいた。
去年の冬からずっと、谷の底で鳴っていた音だった。それが、消えていた。谷の者たちは、互いの顔を見た。自分の耳を疑う顔だった。
そのとき、管が、喋った。
孤独の大地の壁と、海壁と、同じ声だった。
ハーグレイヴの手を、確認しました。
十二のうち、三。
ミラベルが、縁の上で、跳び上がった。
「あと、九!」
ミラベルの声が、白い崖に跳ね返った。
エミルは、自分の両手を見ていた。
『…わたしが、止めました』
「おまえが止めた」
『誰にも、言われずに』
「ああ」
エミルの口の端が、少しだけ、動いた。
管の声が、続いた。
管を止める者を、退けます。
管の継ぎ目が、音もなく、細く開いた。
そこから、何かが、生えてきた。
細い金属の指だった。草のように、何十本も。海壁のてっぺんで、ネルの足首をつかんだ指と、同じものだった。
指は、エミルの足首に巻きついた。手首に巻きついた。両手を、管から引き剥がそうとした。
「放すな!」
マーロウが、叫んだ。
「手を放したら、また流れだす!」
エミルは、放さなかった。指が食いこんでも、手のひらを、管に押しつけたままだった。
ヘルガが、娘の後ろから、その体を両腕で抱えこんだ。
『うちの子に、触るんじゃないよ』
ヘルガは、塩でひび割れた手で、娘の足首の指をつかんだ。引きちぎろうとした。
次の継ぎ目も、その次の継ぎ目も、開きはじめていた。穴の底を横切る管の、端から端まで。
ミラベルが、縁から飛び降りてきた。着地の砂が、一粒も跳ねなかった。
名前のない剣が、光った。エミルの足首の指が、継ぎ目の根もとで落ちた。手首の指も。
「管は切るな!」
マーロウは、叫んだ。
「中は、東の海の水だ。噴き出したら、この穴が海になる。谷の者が、浸かる」
『分かってる! 指だけ!』
ミラベルは、管の肌に刃が触れないところだけを、斬った。一本も、しくじらなかった。
それでも、斬った継ぎ目から、すぐに次の指が生えた。
「ミラ! エミルの手を押さえろ!」
ミラが、崖の階段を駆け降りてきた。木の指で、エミルの右の手首を、管に押さえつけた。木には、指が引っぱれるものが、何もなかった。ミラの腕だけが、ぎしぎしと鳴った。
『ミラ、押さえてる。…でも、指、いっぱい』
管の端から端まで、継ぎ目という継ぎ目から、細い金属の指が、草むらのように揺れていた。
エミルの指先が、少しずつ、管の上で滑っていた。
第六章 了