第二十五章
西を急がせる

ロズリンが、胸の硝子の板を、マーロウに渡した。
夜の溝のそばで、板だけが、白く光っていた。
「本部。北の海が、地面の下で引っぱられてると、トンが言ってる。…おまえか」
白い字は、すぐに浮かんだ。
はい。
東の砂の下の海の水が、来なくなりました。代わりに、西の海を、急がせています。
海壁の根を、海の底の下へ、伸ばしました。
ロズリンの顔から、血の気が引いた。
「どのくらい、急がせた」
海の引き方は、朝ごとに、指の関節、十。
マーロウは、板を握りしめた。
春は、朝ごとに、指の関節一つだった。腕が出て、三つ。根の口が増えて、四つ。ベルが、杭で測った数だった。
それが、十。
「…海が引けば、底が出る。底が出れば」
マーロウは、海壁の街の南の岩で見た獣を、思い出した。海の引いた底の潮だまりから這い出してきた、錆色の背中の獣。海が引くほど、ああいう獣が出てきます、とベルが言っていた。
ロズリンが、板の白い字を、もう一度、見た。
それから、小さく、言った。
『…私たちが、東を、閉じたからです』
「閉じたのは、間違いじゃない」
マーロウは、言った。
「谷は、乾くのが止まった。エミルは、自分で決めて、閉じた。…間違いだったことにしたら、エミルに、合わせる顔がない」
ロズリンは、唇を噛んで、頷いた。
夜のうちに、提督の家へ行った。
提督は、話を最後まで聞いてから、壁の数字を、指でなぞった。
『都から海壁の街まで、私の船で、四日だ』
「明日の朝、出せるか」
『出せる。…議会には、あとで言う。いつもそうしてきた』
提督は、それだけ言った。
ドラグは、提督の家の戸口に、黙って立っていた。今日、兄を埋めた男だった。
マーロウは、ドラグの前に立った。
「来るか」
ドラグは、少しのあいだ、何も言わなかった。
『…海壁の隊長は、おれだ』
ドラグは、言った。
『グロムに預けたまま、兄貴の葬式に来た。兄貴は、埋めた。…隊長の仕事に、戻る』
ロズリンが、ドラグの横に立った。何も言わずに、ドラグの手を取った。
夜更けに、グレゴールが、提督の家の前に来た。
背中に、厚く布を巻いたまま。翼のない背中は、ひどく平らに見えた。
グレゴールは、マーロウの前で、膝をついた。
『連れていってください』
「おまえは、飛べない」
『飛べません』
グレゴールは、顔を上げなかった。
『…ですが、あの人は、私を生かしました。生かされたものを、墓の前に座らせておくだけでは、あの人の選んだことに、けちがつきます』
ドラグが、戸口から、グレゴールを見下ろしていた。
長いこと、見ていた。
「兄貴の選んだ命だ」
ドラグが、言った。
「使え。…おれの見えるところでな」
グレゴールは、額を、石の段につけた。
夜明け前、ドンの座る野で、ニコが、マーロウの袖をつかんでいた。
『ぼくも、行く』
「おまえは、ここだ」
『なんで』
「海の底で何が起きてるか、分かるのは、おまえだけだ。トンの声を聞いとけ。何か変わったら、提督の船が戻ったときに、教えろ」
ニコは、口をとがらせた。それから、地面に手をついて、しばらく目を閉じていた。
『…トンが、行ってこいって』
ニコは、顔を上げた。
『姉ちゃんに、言って。ぼくも、トンも、ここで、ずっと叩いてるって』
「伝える」
明け方、提督の船の甲板で、ミラベルは、マーロウの横に座っていた。
膝を抱えて、北の空を見ていた。
船が浮かぶと、ミラベルは、マーロウの手を取った。自分の頬に、当てた。縫った跡の、まだ消えない頬だった。
『…嬢ちゃん』
「ウィラは、強い。ハロルドもいる。ベルも、ガルドも、グロムも、ガスもいる」
『知ってる』
ミラベルは、マーロウの手に、頬を押しつけたままだった。
『知ってるけど、四日は、長い』
「長いな」
『坊や。…あたし、今度は、間に合いたい』
マーロウは、ミラベルの頭を、自分の肩に引き寄せた。
「間に合わせる。…おまえは、一番強い。おれが、一番近くにいる」
ミラベルは、目を閉じた。
『…うん』
船は、北へ向かった。
ミラが、舳先に立って、金属の目で、ずっと、北を見ていた。
第二十五章 了