海壁

第十四章

年上の弟

挿絵:年上の弟

二隻の船のあいだは、三十メートルほどだった。

グレゴールは、帝国の船の縁に、片手でつかまっていた。背中の縫い目から垂れた血が、灰色の船の腹に、赤い筋を引いていた。

ケイルが、提督の船の縁から、身を乗り出した。

『降りてこい。縫い目が、裂けとる』

グレゴールは、ケイルを見た。黄色い目が、細くなった。

「…あなたに縫い直してもらうのは、もう、たくさんです。将軍」

『きつすぎるか』

「きつすぎます。いつも」

ケイルは、少しのあいだ、黙った。

『なんで、帝国へ行った』

「陛下が、翼に見合う名を、くださいました。皇帝の近衛です。…それと、この羽根を」

グレゴールは、硝子の粒の並んだ羽根を、少しだけ広げた。粒は、もう、光っていなかった。

「都では、私は、誰の目にも入りませんでした。翼をつないでも。近衛長になっても。みんな、死んだあなたの話をしていました。牢の兵まで」

『おれは、おまえを見とった』

「あなたが見ていたのは、下から見上げている私です」

グレゴールの声が、少しだけ、震えた。

「私は、一度でいい。あなたに、見上げられたかった」

ケイルは、何も言わなかった。

布を巻いた手が、切れた手すりを、握っていた。


「十日後の、日の沈むころ」

グレゴールが、言った。

「都の東の、倒れた塔の跡で。…お一人で、来てください。地面の上で、お相手します。翼は、使いません」

ドラグが、兄の横で、牙をむいた。一人で行かせるか、と低く唸った。

ケイルは、弟の腕を、布を巻いた手で押さえた。

それから、向かいの船に、言った。

『…パンを、持っていく』

グレゴールの目が、見開かれた。

「…二つ、ですか」

『二つだ。一つは、おまえのぶんだ。勝っても、負けてもな』

グレゴールは、顔をそむけた。

それから、谷の底を見下ろした。左の肩を押さえて立っている、ヴァルターを。

「ヴァルター・ブラント。陛下からの、言伝です。谷の番を、解く。帝都へ戻れ、と」

『戻らん』

ヴァルターの声が、谷の底から、まっすぐ上がってきた。

『谷の番は、陛下に命じられた。やめるときは、陛下の前で、私が自分で言う』

「次は、陛下の船が、十隻、来ます」

『来たら、数える』

グレゴールは、それ以上、言わなかった。

帝国の船が、ゆっくりと向きを変えた。北の空へ、上がっていった。グレゴールは、船の縁につかまったまま、一度も振り返らなかった。


谷の底に、船を降ろした。

ゴブリンの母親が、ミラベルに抱かれていた子どもを、奪うように抱きとった。それから、何度も、何度も、頭を下げた。

ヴァルターの左の肩は、深く裂けていた。ロズリンが、包帯を巻いた。四回、巻き直した。

『書く手でも、包帯は巻けます』

「…上手くはないな」

『上手ではありません。きつくしてあります』

「…そのようだ」

ヴァルターは、眉を寄せて、黙った。

崖の中ほどの戸口から、エミルとヘルガが、降りてきた。エミルの腰に、古い掘り棒が差してあった。

『マーロウさん。…また、来てくださったんですね』

「来るつもりは、なかったがな」

マーロウは、ニコの伝言を思い出した。

「都の下に、トンってやつがいる。地面の下の海で暮らしてる。そいつから、おまえに伝言だ。北東の砂の下の海が静かになった。ありがとう、だと」

エミルは、目を瞬いた。

『…わたしに、ですか』

「おまえが閉じたからな」

エミルは、しばらく、足もとの塩の床を見ていた。その下に、閉じた管があった。そのずっと先に、見たこともない、都の下の海があった。

それから、エミルは、笑った。はっきりと。孤独の大地で会ってから、マーロウが初めて見る、エミルの笑い顔だった。


夜、崖の下の焚き火のそばで、ドラグが、兄の前に座りこんでいた。

「一人では、行かせん」

『一人で来いと、言われた』

「言われたから、何だ。兄貴は、昔から、言われたとおりにしたことがないだろう」

ケイルは、焚き火を見ていた。

『あいつは、一度でいいから、見上げられたいと言った』

「だから、何だ」

『一人で行かんと、あいつは、また、見上げる側になる』

ドラグは、何か言いかけて、やめた。

ロズリンが、少し離れたところで、帳面を開いていた。

帝国暦三四九年、夏の初め。グレゴール・ヴァーン、十日後、都の東の塔の跡で、と言う。

その下に、一行、足した。

隊長は、まだ、納得していない。

第十四章 了