海壁

第三十三章

十二本目

挿絵:十二本目

ミラが、広間の暗がりから、跳んできた。

グレゴールが両腕で抱えこんでいる手首に、木の指をかけた。二本の筋を、交差させた。ガスの銅の針金を、二回巻いて、右に三回、ねじった。

手の指が、ぱっと開いた。ヘルガの肩から、離れた。

『…ひとつ』

ミラが、言った。

グレゴールが、手首を放して、床に膝をついた。腕が、震えていた。

ドラグが、穴の縁から、吠えた。

「壁の兵! 中へ入れ! 棚には、指一本触るな! 手の指を、こじ開けろ!」

オークの兵たちが、通路を駆け下りてきた。床から生える手に、二人ずつ、組みついた。組みついた手首に、ミラが跳びついて、縛った。

ミラベルが、つかんでいた二つの手首を、ミラに渡した。ミラが、二つとも、縛った。

両手が、空いた。

ミラベルは、エミルの横に戻った。エミルの手の上に、もう一度、両手を重ねた。

『お待たせ。次』

「うん」


二本目。三本目。

エミルの手が引き、ミラベルの手が押した。線が走るたびに、穴の外から、ルーカスの声が届いた。

『止まりました!』

四本目。五本目。

手は、床から生え続けた。オークの兵が組みつき、ミラが縛った。ミラの木の指が、針金で擦れて、白い筋になっていた。

六本目を刻んだとき、エミルの手が、震えはじめた。

「…手が」

『あたしが押す。エミルは、向きだけ』

「向きだけ」

『向きが、うちの印でしょ』

エミルは、頷いた。七本目。八本目。九本目。十本目。

十一本目を刻んだとき、十一本止まった、あと一本、とルーカスの声が届いた。少し、かすれていた。


十二本目の穴は、ほかのと違った。

水路の底の、さらに下に、口を開けていた。流れる海の水の、下だった。

灯りを近づけると、水の底に、根の付け根の三本の線が、ゆらゆらと見えた。

エミルが、水の縁にしゃがみかけた。

「触るな」

マーロウが、言った。

「海の水だ。手首まで浸けて十数えたら、時計が始まる。…おまえは、戻ったばかりの体だ」

『でも、うちの手じゃないと』

「乾かす」

マーロウは、ドラグを振り向いた。

「水路を、少しのあいだ、せき止められるか」

ドラグは、牙を見せて、笑った。

『オークは、海をかぶっても、平気だ』

グロムが南の岩で言った言葉だった。ドラグは、それを、そのまま言った。

『壁の兵! 水の中に並べ! 流れを、背中で止めろ!』

オークの兵たちが、水路に飛びこんだ。肩を並べて、流れに背中を向けて、立った。水が、兵の背中にぶつかって、盛り上がった。その下流が、少しずつ、浅くなった。

それでも、十二本目の穴の上には、まだ、水が残っていた。

「…あとは、おれがやる」

マーロウは、鉤で、手のひらを突いた。

血の手のひらを、残った水に入れた。

まわりの水が、消えた。粒が一つ、沈んだ。

もう一度、突いた。入れた。消えた。

もう一度。

『…坊や』

ミラベルが、後ろから、数えていた。

『三。四。五』

「数えるな」

『数える。…六。七』

八回目で、水の底の金属が、乾いた空気に出た。

三本の線が、くっきり、見えた。

「今だ」

エミルが、乾いた金属に、左の手のひらを当てた。ミラベルが、エミルの手の上から、剣の柄を握った。

最後の線が、走った。


広間じゅうが、静かになった。

床から生えていた手が、ぱたぱたと倒れた。棚の粒の光は、変わらなかった。水路の水が、兵の背中のあいだから、また、ゆっくり流れはじめた。

穴の外で、ルーカスが、言った。

『…十二本。全部、止まりました』

広間に、声が響いた。

根を、閉じられました。十二本とも。

ハーグレイヴの閉じ方です。私には、開けられません。

西の海を、急がせることが、できなくなりました。

少しのあいだ、声は、黙った。

計算を、やり直します。


穴から出ると、夕方だった。

ベルが、まだ両腕を広げて、戸の番をしていた。

ヘルガが、娘を、正面から抱きしめた。今度は、声を上げて、泣いた。

ドラグが、グレゴールの前に立った。震えの止まらない腕を、見下ろした。

「…使えたな」

グレゴールは、顔を上げた。

兄貴の選んだ命だ、使え、とドラグは都で言った。その言葉の、続きだった。

『…はい』

ミラベルは、マーロウの左手を、両手で包んでいた。手のひらに、突いた跡が、八つ、並んでいた。

「…痛くないぞ」

『今日、指も入れて、九回』

「数えるなと言った」

『数える。…いつも』

ミラベルは、跡の一つ一つに、唇を押し当てていった。


次の朝、ベルが、杭の数字を刻んで、壁の上に戻ってきた。

いつもの、抑揚のない声だった。

『指の関節、一つ分です』

ウィラが、壁の上で、跳び上がった。ミアが、帳面を放り出して、ウィラに抱きついた。

春の初めと、同じ速さだった。

第三十三章 了