第十二章
空の上

船は、畑を離れると、東へ向かった。
下を、乾いた土地が流れていった。二日かけて走った道が、あっという間に後ろへ過ぎていった。
船の縁で、ケイルが、布を巻いた手を手すりに置いて、東を見ていた。
ドラグが、その横に立った。
「痛むか」
『痛いうちは、生きとる』
「兄貴の言いそうなことだ」
しばらく、二人とも、黙っていた。
『おれが帝国から都へ来たとき、帝国から来た男の下につく者は、誰もおらんかった』
ケイルが、東を見たまま、言った。
『後ろに立ったのは、あいつだけだ。おれより年上のくせに、兄貴、と呼んだ』
「…兄貴、と」
『翼のないあいつに、地面の上で、飛び方を教えた。おれが飛ぶのを、下から見上げて、腕で真似しとった。何百回もな』
ケイルは、布を巻いた手を、ゆっくり握った。
『一度だけ、翼が欲しいと言った。借り物だからやめとけ、と言った。…あいつは、おれが死んだあとに、翼をつないだ』
ドラグは、手すりを握っていた。
「兄貴を兄貴と呼ぶのは、おれだけだと思っとった」
ケイルが、横を向いた。
『…妬いとるのか』
「少しな」
ケイルは、声を出して笑った。それから、弟の肩を、布を巻いていないほうの手で、一度だけ叩いた。
『あいつは、おまえが妬くほどの弟じゃない。…弟は、おまえだけだ。あいつは、あいつだ』
「どう違う」
『おまえは、おれを見上げたことがない。あいつは、見上げてばかりおった』
甲板の隅で、ロズリンが、帳面に書いていた。
ドラグが、その横に座った。何も言わずに。
ロズリンは、筆を止めた。
『隊長。…お兄さんのことを、書いてもいいですか。今の話を』
「書け」
『お兄さんの許しは』
「兄貴は、書かれるのは慣れとる。葬式まで出されとるからな」
ロズリンは、少しだけ口の端を上げて、書きはじめた。
ドラグは、その字を横から見ていた。字は読むのが遅い。それでも、最後まで、見ていた。
船の舳先で、ミラベルが、風に髪をなぶらせていた。
マーロウは、その横に立った。
『坊やと二人で、空の上。初めて』
「そうだったか」
『そうだよ。あたしが空を飛んだのは、嬢ちゃんと北へ行ったとき。坊やは、下にいた』
ミラベルは、マーロウの腕に、自分の腕を絡めた。
『坊や、高いとこ、平気?』
「嫌いじゃない。落ちなきゃな」
『落ちても、あたしが拾う』
マーロウは、少しのあいだ、下を流れる乾いた土地を見ていた。
「…知ってる」
マーロウは、言った。
「だから、下を見ないで済む」
ミラベルは、絡めた腕に、ぎゅっと力を入れた。それから、背伸びをして、マーロウの頬に、口を押し当てた。
『今の、お礼』
「何のだ」
『下を見ないで済む、ってとこ。…すっごく、よかった』
谷が近づくと、ケイルが、ミラベルのところへ来た。
『一番。頼みがある』
「なに」
『あいつの翼は、斬らんでくれ』
ミラベルは、ケイルの顔を見た。
『あの翼は、背中の肉に、じかに縫いつけてある。付け根を斬れば、あいつの背中ごと裂ける。…羽根を切り落としても、飛べんようになったあいつは、たぶん、生きる理由をなくす』
「じゃあ、どうやって、止めるの」
『あいつには、癖がある。おれの癖だ。立て直すとき、右の翼を、一度畳む。そこで一拍、遅れる』
ケイルは、布を巻いた手を、握った。
『その一拍で、捕まえてくれ。殴ってもいい。…翼だけは、残してやってくれ』
ミラベルは、少しのあいだ、黙っていた。
「坊やが同じこと言ったら、あたし、絶対、聞く」
『…そうか』
「だから、聞く。あんた、坊やが嬢ちゃんのこと頼むときと、同じ顔してるもん」
ケイルは、目を瞬いた。それから、深く、頭を下げた。
日が傾いたころ、東の地平に、白い崖が二つ、見えた。
崖の上から、煙が上がっていた。
船が近づくにつれて、見えてきた。白い塩の崖に、まっすぐな線が、何本も走っていた。刃物で切ったような、きれいな線だった。崖の縁の家の戸口が、いくつも、線に沿って崩れ落ちていた。
谷の上に、帝国の灰色の船が、一隻、浮かんでいた。
谷の底で、錘の兵たちが、胸の錘を光らせていた。重さは、底にしか届いていなかった。
その上の空を、翼を持った影が一つ、ゆっくり回っていた。
金色がかった茶色の、グリフォンの翼。付け根に、太い縫い目。
翼の羽根の一枚一枚に、小さな硝子の粒が、並んで埋めこまれていた。夕日を受けて、きらきらと光っていた。
影が、白い崖の上で止まった。こちらの船を、振り向いた。
グレゴール・ヴァーンだった。
第十二章 了