第三十二章
三本の線と一本

船は、東門の外に降りた。
腹が開くと、真っ先に、ヘルガ・ハーグレイヴが降りてきた。白髪まじりの茶色の髪を、頭のてっぺんで一つにまとめた、腕の太い女。東の谷の、塩の坑の頭だった。
その後ろから、エミルが降りてきた。腰に、先の丸くすり減った掘り棒を差していた。
『塩の坑は、オークに任せてきたよ』
ヘルガは、マーロウの前で、腕を組んだ。
『娘を、また一人で、遠くへやるわけにはいかないからね。…五年、墓を掘ったまま、待ってたんだ』
「助かる」
『助けに来たんじゃない。見張りに来たんだよ』
「なら、見張られとく」
エミルが、母親の横で、少しだけ笑った。それから、マーロウの前に立った。
『お待たせ、いたしました』
それから、首をまっすぐにして、言い直した。
『…お待たせ。来たよ』
最後に、グレゴールと、提督が降りてきた。
グレゴールの背中には、まだ布が巻いてあった。それでも、背筋は、まっすぐだった。
「谷は」
マーロウが訊いた。
答えたのは、エミルだった。
『帝国の船が、十隻、来ました。わたしたちが管を閉じてから、十日くらいあと』
「どうなった」
『谷の上に、一晩、浮いていたよ』
ヘルガが、答えた。
『朝になって、ヴァルターが、一人で、旗の船に乗った。陛下の前で、自分で言う、と言ってね。谷の番をやめるのも、谷を渡さないのも、自分の口で言うって』
「それで」
『十隻は、そのまま、帝都のほうへ帰った。…谷には、一発も、撃たなかった』
グレゴールが、黙って、東の空を見ていた。帝都の方角だった。
「…あいつは」
『知らないよ。それっきりさ』
ヘルガは、言った。
『でも、あの男の部下が、二十六人とも、谷に残った。柵の前に立ってる。隊長の言いつけだって』
昼過ぎ、壁の南の、排水口のあったところに、みんなが集まった。
ベルが、板を外して、穴の縁に立った。両腕を広げて。戸の代わりに。
グレゴールが、その横に立った。
「おまえは、外でいい」
ドラグが言うと、グレゴールは、首を振った。
『戸の番なら、翼は、いりません』
ドラグは、しばらくグレゴールを見て、それから、何も言わずに、頷いた。
ルーカスが、壁に、耳を当てていた。
「ルーカス。根は」
『根の元は、十二。広間の南の端から、海のほうへ、分かれて出ています。…十一は、沖へ。一つは、丘の下で、止まったまま』
マーロウは、エミルを見た。
「錆びない金属は、掘り棒じゃ刻めない。前と同じだ。ミラベルの剣で、手を重ねる」
エミルは、頷いた。それから、ミラベルを見上げた。
ミラベルは、剣の柄を、ぽんと叩いた。
『今度は、十二本。手、疲れないでね』
「疲れても、引くよ」
エミルは、言った。
「うちの印だから」
壁の根の広間は、前と同じだった。
真ん中の水路を、海の水が北へ流れていた。両側の棚に、濡れた粒が、どこまでも光っていた。
南の端まで、歩いた。
水路の南の端の壁に、穴が、十一、並んで開いていた。人が屈めば入れるほどの穴。どの穴からも、錆びない金属の太い根が、壁の外へ、海のほうへ、伸びていた。
灯りを近づけると、根の一本一本の付け根に、線が刻まれていた。
斜めの線が、三本。
エミルが、息をのんだ。
「…どこを掘っても、うちの印」
ヘルガが、娘の肩に、手を置いた。
エミルは、一本目の根の付け根に、左の手のひらを当てた。
右手で、名前のない剣の柄を握った。その上から、ミラベルが、両手を重ねた。
エミルの手が、横へ動いた。ミラベルの手が、押した。
錆びない金属に、一本の線が、走った。
一本目の根が、低く、鳴るのをやめた。
ルーカスが、穴の外から、叫んだ。
『一本、止まりました!』
そのとき、広間じゅうに、声が響いた。
根の元に、触れる者を、退けます。
広間の床が、盛り上がった。石の下から、手が、生えてきた。人の背丈ほどの、錆びない金属の手。手首で、腱が交差していた。
一つ。三つ。十。
手は、エミルのほうへ、いっせいに伸びた。
ミラベルは、剣をエミルの手の中に残したまま、振り向いた。左手で、一つ目の手首をつかんだ。右手で、二つ目をつかんだ。
「エミル、次!」
ミラベルが、叫んだ。
「剣は、あんたが持ってて! あたしの手が戻るまで、線は引かないで!」
三つ目の手が、ヘルガの肩をつかんだ。
ヘルガが、叫ばずに、その指を、塩でひび割れた手でつかみ返した。
その横から、誰かが、飛びこんできた。
グレゴールだった。
戸の番をしていたはずの男が、穴の縁から、まっすぐ駆け下りてきていた。翼のない背中で。三つ目の手首に、両腕で、組みついた。
『翼が、なくても』
グレゴールが、歯を食いしばった。
『つかむことは、できます』
第三十二章 了