海壁

第十一章

牢の格子

挿絵:牢の格子

船の腹が開くより先に、ニコが甲板から縄を伝って滑り降りてきた。

十三の、痩せた男の子だった。帯に、深い水の筒を差していた。

ニコは、畑の土を蹴って、まっすぐ走ってきた。

『マーロウ!』

「筒は」

『飲んでる! 毎日、一口!』

ニコは、マーロウの胸に、ぶつかるように飛びついた。それから、横のミラベルにも、ミラにも、順番に飛びついた。

『ウィラは?』

「海壁の街だ。親父さんと」

『知ってる。手紙、来た。…でも、いたら、いいなって』

ニコは、少しだけ、口をとがらせた。


船の腹から、提督が降りてきた。

その後ろから、男が一人。背が高く、肩が広い。帝国の軍服の袖が、少し短かった。弟の上着だった。

ケイル・モーテンセン。ドラグの兄で、死んだことになっている元将軍。背中に、翼はなかった。

右の手のひらに、布が巻いてあった。布に、血が滲んでいた。

ドラグが、小屋の前から、大股で歩いてきた。

「兄貴。…その手は」

『遅れんかったぞ』

ケイルは、いつもの調子で言おうとした。うまく、いかなかった。

『今度は、おれが、間に合わんかった』


提督は、畑の真ん中で、話した。数を並べるように、短く。

『七日前の夜、帝国の船が一隻、都の上に来た。音を立てずに』

「それで」

『牢の格子が、外から切られた。光る糸でな。…グレゴール・ヴァーンが、背中の翼で、その船に乗った』

ロズリンが、帳面を開いた。筆が、止まっていた。

『ケイルは、その夜も、パンを持っていった。二つ』

ケイルが、布を巻いた手を、見下ろした。

「止めようとしたのか」

『格子の前で、あいつの腕をつかんだ。光る糸が、おれの手のひらを、かすめた。…あいつは、おれの手を、振りほどいた』

「何か、言ったか」

マーロウが訊いた。

ケイルは、少し黙った。

『兄貴には、翼がなくても、みんなが上を見る。おれには、翼があっても、誰も見ない。…だから、行く、と』

誰も、何も言わなかった。

「船は、どっちへ行った」

『北東だ』

提督が、言った。

『議会は、船を出して追うかどうかで、四日、揉めた。出さない、と決まった。だから、私の船で来た。…このあたりで北東といえば、東の谷だ』

「ヴァルターが、言ってた」

マーロウは、言った。

「次に何かが来るなら、谷だと」


ニコが、マーロウの袖を、引いた。

『あのね。トンから、伝言』

「トン?」

『三日前の朝、トンが、下から叩いたの。いつもと、違う叩き方で。…北東の、砂の下の海が、ひとつ、静かになったって』

マーロウは、ミラベルと顔を見合わせた。

三日前の朝。エミルが、谷の管を閉じた朝だった。

『地面の下の海は、ずっと遠くても、つながってるんだって。トンには、分かるんだって。…それで、ありがとうって』

「エミルに、言ってやれ。閉じたのは、エミルだ」

『エミルって、誰』

「谷の、塩を掘る家の女だ。…今から、会いに行く」


ドラグは、兄の横に立っていた。

「おれも、行く」

『当たり前だ』

ケイルが、言った。

『おまえが来なけりゃ、誰があいつを押さえる。組むのは、おまえのほうが上手い』

それから、ドラグは、ロズリンを見た。

ロズリンは、もう、帳面を閉じて、胸に抱えていた。

「…ロズリン」

『私も、行きます』

「…危ないぞ」

『どこへ行くときも、私の帳面ごと連れていく、と言いました。都で。隊長が、自分で』

ドラグは、口を開けて、閉じた。

「…言うたな」

『書いてあります』

ケイルが、横を向いて、少しだけ、笑った。今日、初めての笑いだった。

ミラベルが、マーロウの袖を、つまんだ。ケイルの布を巻いた手を、見ていた。

「どうした」

『…坊やが、あたしの手、振りほどいたら。あたし、たぶん、世界中、追いかける』

「振りほどかない」

『知ってる。…言ってみただけ』

ミラベルは、つまんだ袖を、放さなかった。


ニコは、畑に残ることになった。

『ぼくも、行きたい』

「おまえは、ここにいろ。トビーって男が、畑で名前を呼ぶ仕事をしてる。教わっとけ」

ニコは、不満そうに、頬をふくらませた。それから、ティルダのほうへ、とぼとぼ歩いていった。

提督が、船の縁で、腕を組んでいた。

『乗れ。東の谷までなら、半日だ』

第十一章 了