海壁

第十九章

婚礼の翌朝

挿絵:婚礼の翌朝

朝、マーロウが目を開けると、ミラベルが、もう起きていた。

荷車の下で、腹ばいになって、マーロウの顔を覗きこんでいた。頭に、光る草の輪をのせたままだった。夜のあいだに、少し、しおれていた。

『ミラベル・グリム・ケインです』

「…知ってる」

『毎朝、名乗るって言ったでしょ。一日目』

「覚えるまで、って言ったな。もう覚えてる」

『忘れないように、って言ったもん』

マーロウは、鉤で左の人差し指を突いた。赤い一滴を、ミラベルの唇に落とした。

ミラベルは、目を閉じて、それを受けた。それから、目を開けて、にやっと笑った。

『嫁になって、初めての、一滴』

「昨日までと、同じ一滴だ」

『同じじゃないの。…嫁が飲んでるから』


小屋の前の火のそばで、ロズリンが、帳面を膝にのせていた。

筆を持ったまま、動かなかった。頁には、一行だけ、書いてあった。

帝国暦三四九年、夏。婚礼の翌朝。

その先が、白かった。

ミラベルが、横に、ぴたりと座った。

「ロズリン。顔、赤い」

『赤くありません』

「赤いよ。耳まで」

『…眼鏡が、曇っているだけです』

ミラベルは、ロズリンの眼鏡を、指でつついた。曇っていなかった。

「書かないの?」

『書けません』

ロズリンは、帳面を、胸に抱えこんだ。

『書くことが、多すぎて。…どこから書けばいいのか、分かりません。こんなことは、初めてです』

ミラベルは、ロズリンの肩に、自分の頭をこてんとのせた。

「分かる。あたしも、最初の朝、毛布かぶって、出てこられなかったもん」

『…知っています。ウィラさんから、聞きました』

「嬢ちゃん、そんなことまで言ってたの!」

ドラグが、向こうで、水の桶を運んでいた。いつもより、少し、大股だった。

ロズリンは、帳面の白いところを、しばらく見ていた。それから、小さく、一行だけ足した。

隊長は、朝まで、横に座っていた。

それ以上は、書かなかった。ミラベルが覗こうとすると、ロズリンは、帳面をぱたんと閉じた。


昼前、ケイルが、ロズリンの前に立った。

ロズリンは、慌てて立ち上がった。

ケイルは、少しのあいだ、何も言わなかった。弟より大きな体を、ほんの少し、かがめていた。

『…ロズリン』

「はい」

『オークの家では、婿の兄が、嫁に挨拶をする。…おれの知っとるやり方だと、名前を呼ぶ代わりに、呼び名を決める』

「呼び名」

『妹、と、呼んでええか』

ロズリンの眼鏡の奥の目が、大きくなった。

マーロウは、ロズリンの口から、家族の話を一度も聞いたことがなかった。

「…はい」

ロズリンの声が、少しだけ、上ずった。

「いいです。…兄さん」

ケイルは、目を瞬いた。それから、背中をまっすぐにして、咳払いを一つした。弟とそっくりの咳払いだった。

『弟が、遅れたら、叩いてやれ』

「隊長は、遅れません」

『…そうだったな。遅れるのは、昔から、おれのほうだ』

ケイルは、笑った。それから、ロズリンの頭に、弟と同じやり方で、大きな手を、そっと置いた。

向こうで、ドラグが、桶を落としていた。水が、ドラグの足にかかった。ドラグは、それにも気づかない顔で、こちらを見ていた。


午後、東の輪で、ティルダが、娘に、草の汁を匙で飲ませていた。

マリエは、横になったまま、目を開けていた。匙が近づくと、口を開けた。自分で。

ティルダは、帳面に、書いていた。

マリエ、草の汁を、三口。自分で、口を開ける。

その下に、小さく、一行。

監督官を、おかあさん、と呼ぶ。今日は、二度。

ミラベルは、それを見て、マーロウの袖を引いた。

『坊や』

「なんだ」

『みんな、幸せそう』

「そうだな」

ミラベルは、マーロウの腕に、自分の腕を絡めた。それから、少し、考える顔をした。

『ねえ。…でーと、行こ』

「でーと」

『エルナの村。あの井戸のとこ。婚礼したって、布屋のおばあちゃんに、言いに行くの』

マーロウは、少し黙った。

都の塔の跡の約束まで、まだ五日あった。エルナの村は、畑から荷車で半日だった。

「…明日の朝だ」

ミラベルは、マーロウの腕にぶら下がったまま、その場で、ぴょんと跳ねた。

第十九章 了