海壁

第九章

札の字

挿絵:札の字

帰りの道は、来た道よりも、短く感じた。

ミラベルは、マーロウを背負って走った。ミラは、背中を空けたまま、その横を走った。ときどき、何もない背中を、木の指で確かめるように、叩いていた。

『エミル、いない』

「谷に置いてきた」

『置いてきたんじゃない。…エミルが、残った』

「そうだな。そっちが正しい」

ミラは、満足そうに、前を向いた。


夜、乾いた瓦礫の陰で、火を焚いた。

ミラは、少し離れたところで、横になって、空を見ていた。

ミラベルは、火のそばで、マーロウの胸に、耳を当てていた。

『…鳴ってる』

「毎晩、確かめてるって、言ってたな」

『言った。今日は、坊やが起きてるから、堂々と、確かめてる』

ミラベルは、耳を当てたまま、しばらく、黙っていた。

『坊や。十二人、そろったら、何する』

「決めてない」

『あたしは、決めてる』

ミラベルは、指を折りはじめた。

『海壁の街の納屋に帰る。毎朝、一滴。昼は、市場。ニムの杏。夜は、壁の上。…それから』

ミラベルの指が、途中で止まった。

『子ども、拾ってもいい?』

「拾う?」

『ピップみたいな子。ネルみたいに。…あたし、産めないから。でも、拾うのは、できるでしょ』

マーロウは、火を見た。

ネルは、詰め所の前に置かれていた赤ん坊を、オーウェンに拾われた。ネルは、ピップを拾った。ハロルドの娘は、マーロウの名字を勝手に足した。血がつながっていないのに、みんな、ちゃんと、家族だった。

「…拾うなら」

マーロウは、言った。

「名前は、おれがつける」

ミラベルが、顔を上げた。

『覚えてたの。あたしたちの子の名前、坊やが考えとくって』

「忘れるか」

『じゃあ、考えてるの』

「考えとく」

『まだ、考えとく、なの』

ミラベルは、頬をふくらませて、それから、笑った。マーロウの胸に、もう一度、耳を当てた。

『…いいよ。何年かかっても。心臓、鳴ってるあいだなら』


次の日の夕方、西の地平に、光る畑が見えた。

畑の端に、灰色の大きな影が立っていた。その横に、帳面を抱えた、眼鏡の女。

ドラグは、マーロウが背中から降りるのを待ってから、言った。

『二日で行って、二日で帰ってきたな』

「言われたとおりだ」

『谷は』

「管を閉じてきた。エミルが」

ロズリンが、胸の硝子の板を、持ち上げた。

『知っています。二日前の朝、板が、ひとりでに光りました』

板には、まだ、白い字が残っていた。

ハーグレイヴの手を、確認しました。十二のうち、三。

『畑には、あれから、獣は来ていません。一頭も』

マーロウは、胸の内側から、折りたたんだ頁を出して、ロズリンに渡した。

ロズリンは、眼鏡を押し上げて、最後まで読んだ。それから、顔を上げた。

『いい重さ、とは、何ですか』

「ミラベルに訊け」

『…あとで、訊きます』

ロズリンは、頁を、帳面の新しいところに、丁寧に挟んだ。

ネルが、小屋の裏から、手を拭きながら出てきた。管はどうだった、とネルが訊いた。

「三本、割った」

『割るための管だって、言ったろ。…足りたか』

「足りた。七本、残ってる」

『なら、いい』

ネルの後ろで、オーウェンが、木の栓を削っていた。聞こえていないふりをして、口の端だけ、上がっていた。

ミラベルが、ロズリンの横に並んで、声をひそめた。

「ドラグ、ちゃんと、座ってた?」

ロズリンは、帳面を抱えなおした。

『…四晩、ずっと、横に。私が書いているあいだも、書いていないあいだも』

「書いてないあいだも」

『はい。…書いていないあいだのほうが、長く、座っていました』

ドラグが、向こうで、わざとらしく咳払いをした。


日が沈むと、畑の東の輪で、ティルダが、札を読んでいた。

東の輪には、噛む兵だった三百九十一人が、並んで横になっていた。ティルダの預かった人たちだった。草の汁を、朝と夕に一口ずつ。夕方には、ティルダが、札の名前を一枚ずつ、読み上げた。呼ばれた者が一拍止まるのを、確かめるように。畑に来てから、毎晩のことだった。

マーロウとミラベルは、輪の端を通りかかった。

ティルダの声は、いつもどおり、平らだった。

帝国暦三四六年、秋。港の街。ベン・ハーロウ。

一人が、一拍、止まった。

帝国暦三四七年、冬。カルヴァ。ヨーゼフ・リード。

また一人。

ティルダは、次の札をめくった。

帝国暦三四八年、夏。港の街。マリエ・ノーム。重さ、五十二。

そこで、ティルダの声が、止まった。

札を持った手が、震えていた。

その札は、ティルダ自身が書いた札だった。ロズリンが眠ってしまったあと、ヒューゴの言う名前を、ティルダが朝まで写した。その中の、一枚だった。

ティルダは、札を、もう一度読んだ。

今度は、読み上げる声ではなかった。

『…マリエ』

第九章 了