第二十一章
パンの焼き方

次の朝、土の窯の前に、ケイルがしゃがんでいた。
袖の短い上着を、肘までまくっていた。両手が、粉で真っ白だった。
その横で、アディが、腕を組んで見ていた。ハンナが、さらにその後ろで、腕を組んで見ていた。
マーロウは、窯の前で足を止めた。
「何してる」
『パンを焼いとる』
「見れば分かる」
『明後日の日暮れに、パンを二つ持っていくと、言うた』
ケイルは、こねかけの生地を、両手で押した。生地は、指のあいだから、はみ出した。
『都のパン屋で買うつもりだった。…だが、あいつは、八日、誰も来なかった牢で、おれのパンを待っとった。買ったパンでは、足りん気がした』
アディが、横から、ケイルの手首をつかんだ。
「押しすぎです。…生地が、痛がります」
『生地が、痛がるのか』
ケイルは、アディを見た。アディは、首をまっすぐにしたまま、頷いた。
「母は、そう言って、わたしに教えました。わたしも、そう言って、あなたに教えます」
『…教えてほしいと言われたのは、初めてだそうよ』
ハンナが、マーロウの横で、小さく言った。
『あの子、昨日の夜から、ずっと、そわそわしてたの』
一つ目のパンは、焦げた。
二つ目は、片側だけ、ふくらまなかった。
三つ目で、ようやく、パンの形になった。いびつだった。アディのパンの、半分くらいの背丈しかなかった。
ケイルは、焼けたパンを、手のひらにのせて、長いこと見ていた。
『…不細工だな』
「食えりゃいい」
『あいつは、昔から、形にうるさかった』
ケイルは、焦げたパンを、ちぎって口に入れた。噛んで、顔をしかめた。それでも、最後まで食べた。
『もう二つ、焼く。明日の朝のぶんだ』
アディが、また、ケイルの手首をつかんだ。
「今度は、押しすぎないでください」
昼、ミラベルが、ロズリンの帳面を覗きこんでいた。
行き先の頁だった。
帝国暦三四九年、夏。明日の夜明け、提督の船で都へ。一日半。
行く者、ケイル、隊長、書記、一〇六番、一番、ミラ、ニコ。
ニコは、都に帰る。
ミラベルが、指で、一行ずつなぞった。
「ニコ、帰っちゃうの」
『ドンとトンのところが、ニコの家です』
ロズリンが、言った。
ニコは、畑の端で、トビーと並んで札を読んでいた。八日のうちに、札の読み方を、すっかり覚えていた。
「さみしいな」
『さみしい、と書いておきますか』
「書いといて。…あたしの名前で」
ロズリンは、少し笑って、行の下に、小さく書いた。
一番、さみしいと言う。
夜、ドラグとケイルが、小屋の屋根の上に、並んで座っていた。
下の火のそばで、ロズリンが、帳面を書いていた。ときどき、屋根を見上げた。
マーロウは、小屋の壁にもたれて、二人の声を聞くともなく聞いていた。横で、ミラベルが、マーロウの膝を枕にして、目を閉じていた。
『おまえが、嫁をもらうとはな』
ケイルの声だった。
「兄貴より、先にな」
『うるさい』
「兄貴は、もらわんのか」
『もらう前に、パンの焼き方を覚えんといかん。嫁に食わせるパンが、焦げとったら、逃げられる』
ドラグが、笑った。ケイルも、笑った。
しばらく、二人とも、黙っていた。
『お袋が、よう言うとった』
ケイルが、言った。
『兄貴は、弟の前を歩け。弟は、兄貴の背中を見て、道を覚えろ、と』
「覚えとる」
『おまえは、背中なんぞ、一度も見とらんかった。いつも、おれの横を歩いとった』
「前を見とったからな」
『…それで、ええ』
ケイルは、夜空を見上げた。
『あいつは、ずっと、おれの背中を見とった。だから、明後日は、横に立ってやろうと思う。…地面の上でな』
ドラグは、何も言わなかった。言わずに、兄の肩に、自分の肩を、ごつんと当てた。
夜明け前、畑の南の端で、提督の船が、腹を開けていた。
ティルダが、マリエの手を引いて、見送りに来ていた。マリエは、まだ、母親の腕につかまらないと立てなかった。それでも、立っていた。
トビーが、ニコに、札の束を一つ、渡していた。都で、名前を呼ぶ練習をするように。
アディが、ケイルに、布で包んだものを、二つ、手渡した。昨日の夜に、ケイルが一人で焼いたパンだった。
「形は、昨日より、ましです」
アディが、言った。
「…押しすぎて、おりませんでした」
ケイルは、布の包みを、両手で受け取った。上着の内側に、大事そうにしまった。
船が、光る畑から、浮かび上がった。
南へ。都まで、一日半。
塔の跡の約束の日暮れまでに、ちょうど、間に合う道のりだった。
第二十一章 了