海壁

第十六章

どうやるんだ

挿絵:どうやるんだ

「…知らん」

マーロウは、言った。

ドラグが、眉を寄せた。

『おまえ、嫁がおるだろう』

「名字をやっただけだ。婚礼は、してない」

『…しとらんのか』

「エルナの村の井戸の前で、紐を結んだ。それだけだ」

マーロウは、左の手首を見た。赤い紐が、まだ巻いてあった。ミラベルが三回結び直した結び目は、一度もほどけていなかった。

ドラグは、しばらく、黙って空を見ていた。

『…誰に訊けばいい』

「おれに訊くな」

『おまえしか、おらんかった』

そのとき、二人の後ろで、何かが甲板に落ちる音がした。

振り向くと、ミラベルが、立っていた。足もとに、手に持っていた水の椀が転がっていた。

「…聞いてたのか」

『…婚礼』

ミラベルの右目が、まんまるになっていた。

『ドラグ、婚礼するの!』

ドラグが、慌てて、甲板の隅のロズリンを振り返った。ロズリンは、帳面を抱えたまま、まだ眠っていた。

「声が、でかい」

『だって! 婚礼!』

ミラベルは、声だけ小さくして、跳びはねた。それから、ぴたりと止まって、マーロウを見た。

『…あたしたち、してない』

「してないな」

『紐は結んだ。名字ももらった。でも、みんなの前では、してない』

ミラベルは、マーロウの腕をつかんだ。

『あたしたちも、する』

「…するのか」

『する!』

マーロウは、ミラベルの顔を見た。縫ったばかりの頬が、嬉しさで引きつっていた。

それから、ドラグを見た。ドラグは、途方に暮れた顔で、牙をかいていた。

「…するか」

マーロウは、言った。

「二組、いっぺんに。知らんやつが二人いれば、訊いて回る手間も、半分だ」

ミラベルが、甲板の上で、くるりと回った。


昼過ぎ、船は畑に降りた。

マーロウは、真っ先に、トビー・マーシュを探した。

トビーは、東の列で、札を読んでいた。横に、ニコがくっついていた。

「トビー。谷に行ってきた」

トビーの手が、止まった。

「おまえのおふくろに、会った。塩の袋を縫ってた」

『…母は』

「生きてるとは、言った。あとは、おまえが言いに来ると、言っといた」

トビーは、札の束を握りしめた。

「袋の口の端に、結び目を三つ作ってた。おまえが縫った袋は、いつも三つだったそうだ。おまえがいなくなってからも、手が勝手に三つ作る、とな」

トビーの顔が、ゆっくり、くしゃくしゃになった。

「三つのまま、待ってろ、と言っといた」

『…はい』

トビーは、声を出さずに、泣いた。札の束を胸に抱いたまま。ニコが、その背中に、黙って手を置いた。


夕方、小屋の裏で、ドラグが、ロズリンの前に立っていた。

マーロウとミラベルは、荷車の陰から、首だけ出して見ていた。ケイルも、その上から覗いていた。ミラも、その下から。

ドラグは、しばらく、何も言わなかった。

ロズリンは、帳面を抱えて、待っていた。

「…ロズリン」

『はい』

「婚礼を、したい」

ロズリンの眼鏡の奥の目が、一度、瞬いた。

『…婚礼とは、どのようなものですか』

「知らん」

『知らないのですか』

「今から、訊いて回る。マーロウも知らんかった。…一番は、訊く前に、跳ねとった」

荷車の陰で、ミラベルが、口を押さえた。

ロズリンは、長いこと、ドラグを見上げていた。

それから、帳面を開いた。何も言わずに、新しい頁に、書いた。ドラグに、見せた。

帝国暦三四九年、夏の初め。隊長、婚礼をしたい、と言う。

書記は、はい、と言った。二度目。

ドラグは、字を読むのが遅い。最後の行まで、ゆっくり読んだ。

「…二度目、ってのは」

『一度目は、ずっと座ると言われたときです』

ロズリンは、帳面を閉じた。それから、少しだけ、うつむいた。

『二度とも、同じ答えです。…何度訊かれても、同じです』

ドラグは、ロズリンの頭の上に、大きな手を、そっと置いた。

荷車の陰で、ケイルが、鼻をすすった。

「兄貴」

ドラグが、振り向かずに言った。

「見えとるぞ。全員」


その夜、ティルダが、帳面を抱えて、マーロウの前に来た。

『婚礼の記録は、指示書に、ございません』

「だろうな」

『ですから、書きます。…わたくしが』

ティルダは、帳面の新しい頁を開いた。いちばん上に、もう、日付が書いてあった。

帝国暦三四九年、夏。三日後の日暮れ。一の墓の前。

『書記が婚礼をなさるのですから、記録は、ほかの者が書かねばなりません。わたくしは、十九年、書いてまいりました』

ティルダは、頁を閉じて、きっちりと頭を下げた。

「…頼む」

荷車の下で、ミラベルが、マーロウの胸に顔を埋めていた。

『三日後だって』

「聞いた」

『坊やは、あたしに、なんて言うの。婚礼のとき』

「…考えとく」

『また、考えとく』

ミラベルは、マーロウの胸の中で、くつくつと笑った。

『いいよ。三日、考えといて。…あたしは、もう、決めてるから』

第十六章 了