海壁

第二十七章

字を刻む

挿絵:字を刻む

「…かなしい、って、いうの」

答えたのは、ウィラだった。

「ベル。それは、かなしい、っていうの」

ベルは、白い石に手を置いたまま、ウィラを見た。

『かなしい』

ベルは、その言葉を、口の中で、確かめるように、繰り返した。

『寂しい、は、一番が街を出たときに、覚えました。…これは、寂しいより、重いです』

「重いの。ずっと、重いよ」

『覚えました』

ベルは、少しだけ、黙った。

『…覚えたくは、ありませんでした』

ミラベルが、ベルの頭を、胸に抱えこんだ。ベルは、今度は、手の置き場所に迷わなかった。ミラベルの背中に、両腕をまわした。


午後、ガルド・レインが、丘へ上がってきた。

禿げ上がった頭。顔の古い傷。右の手首から先は、ない。左手に、鉄の細い刻み棒と、木槌を提げていた。

『刻む金が、なかったんだろう』

ガルドは、白い石の前に、しゃがんだ。

『金は、いらん。おれが刻む。…左でな』

ウィラが、ガルドの横に、膝をついた。

「なんて、刻むの」

『おまえが決めろ。娘だろう』

ウィラは、長いこと、二つの石を見ていた。

それから、言った。

「エマ・ドーセット。歌が、下手」

ガルドの手が、止まった。

「ハロルド・ドーセット。歌が、もっと下手」

ガスが、うしろで、吹きだした。吹きだしてから、泣いた。

ガルドは、何も言わずに、刻み棒を当てた。左手だけで、木槌を振った。字は、一つずつ、少しずつ、曲がった。

『左で刻むと、字が曲がる』

「曲がってていい」

ウィラは、言った。

「父さんも、母さんも、まっすぐじゃなかったもん。…父さんは、七回殴られて、八回目に、結婚してって言った人だよ」

ガルドは、ふん、と鼻を鳴らした。それから、最後の字を、いちばん深く、刻んだ。


刻み終わった石の前で、ウィラが、ミラベルを振り向いた。

「ミラベル。…婚礼、したんでしょ。畑で」

ミラベルの目が、丸くなった。

『なんで、知ってるの』

「ロズリンに、聞いた。さっき」

ウィラは、ミラベルの右の手首を見た。赤い紐が、二本。木の輪。

「ここでも、もう一回するって、マーロウが言ったって」

『…言った。坊やが』

ウィラの目に、また、涙がたまった。

「父さんに、見せたかったな」

ミラベルは、ウィラの前に、しゃがんだ。ウィラの両手を、自分の両手で、包んだ。

『見せる』

ミラベルは、言った。

『ここで、する。父さんと、母さんの、前で。…嬢ちゃんも、いちばん前で、見てて』

ウィラは、頷いた。何度も、頷いた。

「ニコから、伝言だ」

マーロウが、言った。

「ニコも、トンも、都で、ずっと叩いてる。姉ちゃんに言え、とな」

ウィラは、鼻をすすった。

『…あの子、筒、ちゃんと飲んでた?』

「飲んでた。毎日、一口」

『なら、いい』

ウィラは、白い石の、曲がった字を、指でなぞった。


夕方、丘を下りる途中で、若い男が一人、道の脇に立っていた。

痩せて、背が高い。染み一つない服を、いつも着ていた男だった。本部の荷車の御者として、この街へ来た。ルーカス・ストラウド。畑にいるクララ・ストラウドの、兄だった。

ルーカスは、マーロウの前に出た。

呼ばれる前に。

『…聞こえるんです』

ルーカスは、言った。まだ少し、平たい声だった。

『毎晩。壁の下から。海の底の、ずっと下で、何かが、掘っていく音が。…海が、急に引きはじめた夜から』

「何が、掘ってる」

『根です。たぶん。…どこを、どっちへ、何本、進んでいるか。聞こえます』

マーロウは、ルーカスを見た。

「何本だ」

『十二本。…海の底の下を、這っていきます。海の、沖のほうへ』

ルーカスは、少し黙った。

それから、言った。

『教えます。…誰にも、言われていません。クララに、兄さんは海のそばにいる、と書いた日から、自分で決めることにしていました』

ルーカスが、壁の石に、手を当てた。

壁が、喋った。孤独の大地の壁と、同じ声だった。

ストラウドの耳を、確認しました。

十二のうち、四。

ミラベルが、丘の道の上で、跳び上がった。泣き腫らした顔のまま。

「あと、八!」


その夜、ニムの店の二階で、マーロウは、みんなに言った。

「根は、海の底を掘って伸びてる。掘ったものなら、閉じられるやつがいる」

ロズリンが、顔を上げた。

『エミルさん、ですか』

「ああ。エミルは、閉じた管に言った。どこを掘っても、そこには、うちの印がついてる、とな」

マーロウは、言った。

「東の谷から、エミルを連れてくる」

提督が、壁の地図に、指で線を引いた。

『東の谷までなら、畑を回らずに、まっすぐ東へ。私の船で、五日。往って戻って、十日だ』

「誰が行く」

『私が、行きます』

グレゴールだった。翼のない背中を、まっすぐにしていた。

『飛べませんが、船には乗れます。…迎えに行く者が、要るのでしょう』

ドラグが、グレゴールを見た。それから、頷いた。

次の朝、提督の船は、東へ飛んだ。

ウィラは、壁のいちばん高いところに立って、それを見送っていた。いちばん前で。

第二十七章 了