海壁

第三十二章

ナナ

挿絵:ナナ

縦穴を、六人で、下りた。

ウィラと、リーネ。剣を挟んだオスカ。ベル。ガルド。それから、ニコ。ドンの手のひらの小舟から、降りてきた。

『ドンは、塔に、入れないから。…ぼくが、聞く』

細い道を、ぐるぐると、下った。灯りが、壁の板の字を、一周ごとに、照らした。

どおん。

下から、また、鳴った。縦穴じゅうの板が、びりびりと、震えた。リーネが、ウィラの手を、強く、握った。

「こわい?」

『…こわくない』

リーネは、前を見たまま、言った。

『泣いてる子は、こわくない。…あたしも、泣いてたもん。荒れ地の村で、毎晩』


三十五周目。底に、着いた。

粒の山が、ぼんやりと、光っていた。その光が、揺れていた。山の粒が、床が鳴るたびに、さらさらと、崩れて、また、積もった。

錆びない金属の、丸い床。いちばん古い板の、埋めこまれた床。

どおん。

床が、下から、突き上げられた。足の裏に、響いた。

ニコが、床に、膝をついた。両手のひらを、床に、ぺたりと、つけた。乾いた金属の床に。

目を、閉じた。

『…いる』

ニコの声が、震えた。

『すごく、下。水の中。…ずっと、ぶつかってる。誰か、気づいてって』

オスカが、ニコの横に、しゃがんだ。剣を、床に、寝かせた。それから、開いたままの手のひらで、床を、叩いた。

とん。

とん、とん。

とん。

北の氷の上で、コンに、叩き返したときと、同じ間隔だった。

どおん、が、止まった。

縦穴が、しんとした。

しばらくして、床の、ずっと下から、小さな音が、返ってきた。

とん。


『…誰?って』

ニコが、言った。

リーネが、ウィラの手を、離した。

床の、まん中に、しゃがんだ。粒の山の、すぐ横に。両手のひらを、床に、つけた。ニコと、同じように。

「リーネ」

リーネは、床に、言った。

「リーネ・グリム・ケイン。九つ。…あんたに、名前、つけに来た」

床の下から、とん、と、一つ。

「あたしの名前は、おじさんが、つけたの。おじさんの名前は、おじさんのお母さんが、つけたの。…だから、こんどは、あたしの番」

リーネは、床に、額を、近づけた。

「ずっと、呼んでたんでしょ。…ごめんね。聞こえなかった。名前が、なかったから」

とん。とん。

ニコが、目を閉じたまま、言った。

『…待ってたって。三百年』

リーネは、しばらく、黙っていた。

それから、言った。

「チビが、生まれた朝ね。あたし、数えてたの。雪の夜から、ずっと。おじさんの外套の中で。いち、に、って」

ウィラは、息を、止めた。雪の夜。ロズリンのお産。ウィラは、家の中で、ロズリンの手を、握っていた。軒下の、父さんの外套の中で、リーネが数えていたことは、あとで、聞いた。

「そしたら、なな、で、泣いたの。チビが。…声が、聞こえたの。なな、で」

リーネは、床を、見つめた。

「だから」

リーネは、床を、叩いた。小さな手のひらで。

いち。

に。

さん。

し。

ご。

ろく。

なな。

「…ナナ」

リーネは、言った。

「あんたの、名前。ナナ。…声が、聞こえる、数」

縦穴が、静かだった。

長い、長い、間があった。

それから、床の、ずっと下から、音が、返ってきた。

とん。とん。とん。とん。とん。とん。とん。

七つ。

ニコが、床に、手をついたまま、泣きだした。

『…ナナ、って』

しゃくりあげながら、言った。

『呼ばれたって。…自分の、名前で、呼ばれたって。初めてだって』

オスカが、開いたままの両手で、リーネの肩を、そっと、挟んだ。

ベルの口の端が、一番と同じ形に、上がっていた。

ガルドは、壁の板に、背中をつけて、目を、閉じていた。


ウィラは、帳面を、開いた。

床に、膝をついて、書いた。字は、また、曲がった。

帝国暦三五〇年、春の終わり。心臓の部屋の、床の下。名前、ナナ。命名者、リーネ・グリム・ケイン。

書き終えて、ウィラは、リーネを、見た。

リーネは、まだ、床に、両手を、つけていた。

『…ナナ。みんなで、決めるの。上で。あんたのこと』

床の下から、とん、と、一つ。

「待つって」

ニコが、涙を、袖で、拭きながら、言った。

「名前、もらったから。…もう、泣かないで、待てるって」

リーネは、床から、手を、離した。立ち上がった。

それから、ウィラに、抱きついた。

『…あたし、つけたよ』

「うん。…つけた」

『ちゃんと、届いた?』

ウィラは、リーネの頭に、手を、置いた。

「届いた。…七つ、返ってきた」

機械が止まってから、二百三十四日目の夕方だった。

第三十二章 了