第十八章
しょっぱくない水

硝子の板の縁に、字が、刻んであった。
二番。燃やす所の作り。
ジェロームは、板に、指を、置いた。板が、白く、光った。細い線の絵が、浮かんだ。胸の形。その奥の、小さな、箱のようなもの。
『刃の胸には、燃やす所が、あります』
ジェロームは、言った。
『二番、ベル殿の燃やす所は、古い作りです。粒を、食べて、燃やします。…一番も、最初は、この作りでした』
ベルが、ウィラの横で、うなずいた。ベルは、今も、市場の粒を、食べて、動いている。
『共和国の作業場で、トビアス・レンク殿が、一番の燃やす所を、作り直しました。粒ではなく、一〇六番の血、一滴で、燃やす作りに。…オスカ殿は、その作り直したあとの設計で、生まれました』
「だから、父さんの血が、なくなって、止まった」
『はい』
ジェロームは、板の上の、胸の絵を、指でなぞった。
『ですが、止まったことと、焼けたことは、違います』
ジェロームの声が、少し、震えた。
『一番は、焼けていました。海を、燃やしつづけて。…焼けた肉は、戻りません。あの朝、私が、そう申し上げました』
ウィラは、覚えていた。浜で。父さんの腕の中で。
『オスカ殿は、焼けてはいません。燃やすものが、なくなって、止まっただけです』
ジェロームは、ウィラを、見た。
『燃やす所を、古い作りに、戻せば。…粒で、燃やす作りに、戻せば。オスカ殿は、また、動くかも、しれません』
部屋が、静かになった。
ウィラの手が、帳面の上で、固まっていた。
「…動く?」
『かも、しれません』
ジェロームは、眼鏡を、外した。
『作り直すには、トビアス殿の手が、要ります。部品は、この部屋の記録から、作れるはずです。オスカ殿は、動かせませんので、こちらから、海壁の街へ、行くことになります』
ユリウスが、戸口に、立っていた。
「…部品、作れるの? ユリウスさん」
ユリウスは、額の古い傷を、かいた。
『作ります。…腕の部品を組んだ手です。胸の部品くらい』
「…オスカ、また、しゃべる?」
『分かりません』
ジェロームは、正直に、言った。
『一番は、作り直したあとも、一番でした。何も、忘れていませんでした。…オスカ殿も、そうであってほしいと、私は、思います』
ウィラは、両手で、口を、押さえた。
それから、手を、下ろした。
「…剣、返すって、言ったの。オスカに」
声が、揺れた。
「返しに行く。…ちゃんと、起きてる、オスカに」
ベルが、ウィラの肩に、手を、置いた。金属の手を、そっと。汗のない、肩の布の上に。
『共和国へ行く、グレゴールの手紙に、一行、足しましょう。…トビアス・レンク殿へ』
「うん。…今、書く」
朝、ウィラは、塔の窓の前で、指を、折った。
「…百九十三」
それから、グレゴールの鞍袋に、もう一通、手紙を、押しこんだ。
グレゴールのグリフォンは、南へ。ロルフのグリフォンは、西へ。セラフィナの船は、エステルとマルゴットを乗せて、西へ。
エステルは、船べりから、灯りを、振った。
『ウィラ! また、灯り、貸してあげるからね!』
「ありがとう!」
船が、小さくなった。
昼、ウィラは、塔の東の建物の、横の水路へ、行った。
白い服の人たちが、水路の縁に、並んでいた。前は、言われたことしかしなかった人たち。名前を呼ばれて、少しずつ、自分で、歩きはじめた人たち。
水路の中に、白い、柔らかいものが、浮かんでいた。大だらいほどの大きさ。細い根が、水の中で、ゆらゆらと、揺れていた。
ヨカの、きょうだいだった。
白い服の女の人が、ウィラに、頭を、下げた。
『この子の名前は、みんなで、毎晩、考えています。…まだ、決まりません』
「急がなくて、いいよ」
ウィラは、言った。
「決めたら、呼んであげて。…名前は、呼ばれるために、あるんだって」
ウィラは、手のひらを、開いた。
粒が、一つ、のっていた。きのう、グレゴールが、底から、一握り、持って上がってきた粒の、一つ。印のない粒。
ウィラは、それを、水路に、落とした。
白い根が、すうっと、伸びた。粒を、包んだ。
粒の光が、ほどけるように、消えた。
水路の水が、ふっと、盛り上がった。桶一杯ぶん、水が、増えた。縁から、あふれて、ウィラの靴を、濡らした。
白い服の人たちが、小さく、声を、上げた。
ベルが、水路の縁に、しゃがんだ。刃を、出さずに、指の先を、あふれた水の、すぐ上に、かざした。触れないように。
それから、水の匂いを、かいだ。
『…ジェローム』
ベルが、振り向いた。
『この水、塩の匂いが、しません』
「塩の、匂い?」
ジェロームが、しゃがんだ。指の先を、水に、ちょっとだけ、つけた。指先をなめるくらいでは、何も始まらない。手首まで浸けて、十を数えなければ。
ジェロームは、指先を、なめた。
長いこと、何も、言わなかった。
『…しょっぱく、ありません』
ジェロームは、言った。
『井戸の水と、同じです。…塩は、粒になるとき、残っていくのでしょう。海の底に。窪地に』
ウィラは、濡れた自分の靴を、見下ろした。
それから、縦穴のほうを、振り返った。塔の下の、あの光る山のほうを。
「…じゃあ、あの山、全部」
声が、震えた。
「全部、水に戻したら。…しょっぱくない水、なの?」
誰も、答えなかった。
答えを、確かめる方法は、一つしか、なかった。
機械が止まってから、百九十七日目の昼だった。
第十八章 了