海壁

第二十八章

モーテンセン

挿絵:モーテンセン

次の朝、リーネは、壁の根へ、走っていった。ウィラも、ついていった。

小さな屋根の下で、オスカは、両手で空を挟んだまま、膝をついていた。

リーネは、瓶を、オスカの前に、かざした。

「オスカ。水、戻ったよ。…しょっぱくない水」

オスカは、黙っていた。

「いい?」

「…いいって」

ウィラは、オスカの前に、しゃがんだ。

『オスカ。…あと、七日で、トビアスさんが、来る』

リーネが、ウィラを、見た。

『オスカの胸の、燃やすとこを、作り直せるかもしれないの。ユリウスさんが、部品を、作ってくれた。…粒で、動けるようにするの。ベルみたいに』

リーネの目が、まんまるになった。

「…オスカ、起きるの?」

『起きるかもしれない。…かもしれない、だよ』

リーネは、瓶を、胸に、抱えた。それから、オスカの顔を、のぞきこんだ。

「オスカ。…七日だって。あたし、数えるからね」


七日のあいだ、街は、いつもどおりだった。

朝、リーネが、納屋の戸口で、数えた。二百六。二百七。それから、壁の根へ走って、オスカに、訊いた。今日は、あと六日。今日は、あと五日。

ベルは、毎朝、浜の杭を、測った。

『海は、毎朝、少しずつ、増えています。…指の、爪ひとつぶんずつ』

「減って、ないんだ」

『はい。…一〇六番が、残した海です』

ユリウスは、壁の根で、オスカの胸のまわりを、何度も、測った。ガルドが、横で、灯りを、持った。

ウィラは、昼に、東門の前の広場で、剣の稽古をした。相手は、ベル。リーネは、端で、転んだ数を、数えた。

ひと月前より、ずっと、少なかった。


四日目の夜、ロズリンが、言った。

『私も、行きます。孤独の大地へ』

納屋の、揺りかごの横だった。ケイルが、眠っていた。

ドラグが、小刀を、止めた。もう、揺りかごの角を削る必要は、なかった。それでも、毎晩、小刀を、持っていた。

『縦穴の字を、読みたいんです。…ウィラさんの帳面だけじゃなくて、自分の目で』

『ケイルは、三か月に、なります。船の上なら、抱いていけます』

ドラグは、しばらく、黙っていた。

「…おれも、行く」

『隊長が?』

「壁は、グロムに、任せる。…人を守る壁だ。おれが、いなくても、守れる」

ドラグは、小刀を、置いた。

それから、ロズリンを、見た。いつもより、長く。

「ロズリン」

『はい』

「帳面の、チビの、欄」

ロズリンは、首を、かしげた。

「父、ドラグ・モーテンセン。母、ロズリン・ヴェイク。…そう、書いたな」

『はい』

ドラグは、大きな手を、膝の上で、握った。開いた。また、握った。

「名字を、やる」

ロズリンの、手が、止まった。

「モーテンセン。…兄貴と、おれと、チビの名字だ。いらんなら、いい」

長い、間があった。

ケイルが、揺りかごの中で、小さく、寝返りを打った。

『…いります』

ロズリンの声は、震えていた。

『いります。…ください』

ロズリンは、帳面を、開いた。ペンを、とった。

「おい。…そういうのは、書かんでいい」

『書きます。記録係ですので』

ロズリンは、新しい行に、書いた。手が、震えて、字が、少し、曲がった。

帝国暦三五〇年、春。ロズリン・ヴェイク、ロズリン・モーテンセンになる。

書き終えて、ロズリンは、帳面を、胸に、抱いた。

ドラグは、そっぽを、向いていた。耳の先が、真っ赤だった。

しばらくして、ぼそりと、言った。

「…おまえが、いい」

ロズリンが、顔を、上げた。

「最初から、ずっとだ。…荷車の、十三人目だったときから」

ロズリンは、帳面を、抱いたまま、泣いた。

それから、ドラグの胸に、額を、押しつけた。


次の朝、ウィラが、納屋の戸口で、ロズリンの帳面を、見せてもらった。

ウィラは、その一行を、何度も、読んだ。

「…ロズリン・モーテンセン」

『はい』

「すごく、いい」

ロズリンは、少しだけ、笑った。目が、赤かった。

リーネが、横から、のぞきこんだ。

『なんて、書いてあるの』

ウィラが、読んでやった。

リーネは、指を、折った。

「ろ、ず、り、ん。…も、お、て、ん、せ、ん。…十!」

『数えないでください』

ロズリンが、言った。

それから、三人で、笑った。

機械が止まってから、二百十五日目の朝だった。

第二十八章 了