海壁

第十五章

大きな手

挿絵:大きな手

「夫と、息子のため?」

ウィラは、剣を、下ろさなかった。

『ハイトの家は、おしまいだよ』

マルゴットは、言った。平らな声だった。

『あの人は、帝都で、縄についた。船は、ほとんど、取り上げられた。残ったのは、あの二隻だけ。…一隻は、海壁の街で、あの光る水の化け物に、押さえられた』

「ドンは、化け物じゃない」

『そうかい』

マルゴットは、粒の山を、見上げた。

『十の家に、払う金が、要る。あの人を、縄から出すにはね。…それから、息子の腕』

「腕?」

『焼けたんだよ。両腕とも。孤独の大地で、粒を噛んで、手と、取っ組み合って』

マルゴットの大きな手が、服の裾を、握りしめた。

『帝都の医者は、粒で払えと、言う。…一つ、二つじゃ、足りない』

ウィラは、黙っていた。

粒の山の光が、マルゴットの顔を、下から、照らしていた。すすで汚れた顔。目の下の、濃い影。

「…ブルーノ」

ウィラが、言った。

マルゴットの目が、動いた。

「息子さん、ブルーノ、でしょ。…お父さんを、止めた人」

『…なんで、あんたが、知ってる』

「父さんが、話してくれた。孤独の大地から、帰ってきた夜に」

ウィラは、うしろを、振り返った。

「ジェロームさん。…見てたんでしょ。その日」

ジェロームが、縛った男たちのそばから、ゆっくり、歩いてきた。眼鏡を、外していた。

『見ておりました。塔の、下で』

「話して。…この人に」

ジェロームは、マルゴットの前に、立った。

『ブルーノ殿は、お父上の手首を、つかみました。お父上に、頬を打たれても、よろけずに。…止まってくれ、と、言っておられました。よくやったと、言わなくていいから、と』

マルゴットは、動かなかった。

『そのあと、ブルーノ殿は、噛む粒を三つ、噛みました。本部の手に、狙われた人たちを、守るために。…両腕は、それで、焼けました』

ジェロームは、少し、黙った。

『夜明けに、お父上は、縄の両手で、息子さんの頭を、抱えておられました。…よく、やった、と』

マルゴットの口が、開いた。声は、出なかった。

「…聞いた?」

ウィラが、小さく、言った。

『…あの人が』

やっと、出た声は、かすれていた。

『あの子に、よくやった、って? …一度も、言わなかったのに。二十五年、一度も』

「言ったんだって。…ちゃんと」

マルゴットは、自分の大きな手を、見下ろした。長いこと、見ていた。

『…あの子の手は、あたしの手だよ』

マルゴットは、言った。

『小さいときから、大きかった。あの人は、それが、気に入らなかった。…ハイトの家の男の手じゃない、って』

「お父さん、言ってたって」

ウィラは、ジェロームを、見た。ジェロームが、うなずいた。

「おまえは、昔から、手が、大きかったな。…って。止められたとき」

マルゴットは、両手で、顔を、覆った。大きな手で。

肩が、揺れた。声は、出なかった。


ウィラは、剣を、下ろした。

「…あたしも、言ってもらったこと、ある。父さんに」

マルゴットは、手の間から、ウィラを、見た。

「嵐の夜に、妹を、海から、引っぱり上げたとき。…よく、離さなかったな、って」

ウィラは、首の袋に、触れた。

「父さん、もう、いないの。…だから、一回きり」

マルゴットは、しばらく、黙っていた。

それから、顔から、手を、下ろした。

『上に、まだ、うちの者が、十四人いる』

「上?」

『丸い部屋の前で、あの銀の髪の女と、やりあってる。…あたしが、そう、言いつけた。上を、押さえとけ、って』

ウィラの背中が、冷たくなった。

丸い部屋。セラフィナと、エステル。

エステルは、灯りを、持っていない。

『あたしの声なら、止まる』

マルゴットが、言った。

『でも、ここからじゃ、届かない。…三十五周ぶん、上だよ』

そのとき、縦穴のまん中を、風が、吹き下りてきた。

グリフォンだった。

「グレゴールさん!」

グレゴールが、底の床すれすれで、翼を、広げた。鞍の上で、息を、切らしていた。

『ウィラ! 上が、持ちません!』

グレゴールの声が、縦穴に、はね返った。

『名代が、一人で、十四人を、止めています。光の糸で。…ですが、手を、焼かれました。ロルフも、戸の前で、倒れて。エステル様は、暗がりで…』

ウィラは、もう、走っていた。

「乗せて!」

『三人まで、乗れます!』

ウィラは、鞍のうしろに、飛び乗った。それから、振り向いて、手を、伸ばした。

マルゴットに。

「来て。…止めて。あんたの声で」

マルゴットは、ウィラの手を、見た。それから、自分の大きな手で、それを、つかんだ。

ガルドが、下から、怒鳴った。

『行け! 下は、おれが、見とる!』

「お願い!」

ベルが、ガルドの横で、言った。

『私も、ここに、います。…ウィラ、灯りを、落とさないで』

グリフォンが、床を、蹴った。

縦穴の、まん中の、何もない空間を、まっすぐ、上へ。壁の板の字が、流れるように、下へ、過ぎていった。

ウィラは、腰の灯りを、片手で、握りしめていた。

エステルの、灯り。

「待ってて。…今、返しに行くから」

機械が止まってから、百九十五日目の、夜更けだった。

第十五章 了