第九章
聞こえてる

切っ先を、上げたところで、ジェロームが、言った。
『お待ちください』
ウィラは、振り向いた。
『戸は、逃げません。…その前に、見ていただきたいものが、あります』
ジェロームは、隣の、四角く切り抜かれた戸を、見た。
ウィラは、剣を、下ろした。
刃を作った部屋は、細長かった。
両側の壁に、硝子の板が、何百枚も、並んでいた。どれも、白く、光っていた。奥に、空の、大きな硝子の槽。そのまん中に、壊れた低い台。
板の縁に、細い字が、刻んであった。
一番。帝国暦三四九年。納屋の戸口。ミラベル・グリム・ケイン。
その横の板も。その横も。
「…全部に、名前」
『二百八十枚です』
ユリウスが、少しうしろで、言った。額の古い傷を、指でかいた。
『先生の字より、私の字のほうが、きれいです』
「余計なことを、言うな」
ジェロームは、弟子を、振り返らずに、言った。
板は、触れた者がいると、一枚ずつ、話す。ジェロームが、そう教えてくれた。
ウィラは、板の前を、ゆっくり、歩いた。一枚の前で、足が、止まった。
一番。帝国暦三四九年。壁の上。ミラベル・グリム・ケイン。
ウィラは、手を、伸ばした。指先が、硝子に、触れた。
『坊や、好き。…ねえ、聞いてる? 大好き』
ミラベルの声だった。
ウィラの息が、止まった。
それから、もう一つ、声がした。
「…聞こえてる」
ぶっきらぼうな、低い声。
父さんの、声だった。
ウィラは、板に、両手をついた。
『ねえ、坊や。嬢ちゃんのこと、好き?』
「…好きとか、そういうんじゃない」
『じゃあ、なに』
しばらく、何も、聞こえなかった。風の音だけが、していた。
「…娘だ」
ウィラは、声を、出さなかった。
板に額をつけて、長いこと、動かなかった。
ベルが、うしろに、立っていた。何も、言わなかった。ガルドは、戸口で、背中を向けていた。
やがて、板の中で、ミラベルが、笑った。
『知ってた』
『お見せしたかったのは、これです』
ジェロームは、眼鏡を、外していた。
『一〇六番の声も、残っております。一番の毎日の、そばにいた日は、いつも』
ウィラは、顔を、上げた。目が、赤かった。
「…ありがとう」
ウィラは、板から、手を、離した。
「また、来る。…今は、戸を、開ける」
心臓の部屋の戸の前に、戻った。
戸は、刃を作った部屋の戸の、倍も大きかった。継ぎ目も、取っ手も、なかった。まん中に、一か所だけ途切れた輪。
ガルドが、ウィラの横に、立った。
『押すな。…刃の重さで、落とせ』
「落とす?」
『その剣は、錆びない金属を、切れる。力で切るんじゃない。当てれば、切れる。…おまえは、線を、引くだけだ』
ウィラは、輪の途切れたところに、切っ先を、当てた。
右で押す。左は、添えるだけ。
押さなかった。ただ、下へ、引いた。
しゅっ、と、音がした。
金属の上に、細い、黒い線が、走った。
ウィラは、息を、止めた。それから、線を、延ばした。下へ。横へ。上へ。
一辺を引くたびに、腕が、震えた。何度も、休んだ。ベルが、布で、ウィラの手のひらの汗を、拭いた。ベルの腕には、触れないように、布を、端だけ、持って。
四辺目を、引き終えたとき、外は、夕方になっていた。
四角い金属の板が、ゆっくり、奥へ、傾いた。
倒れた。
音が、しなかった。
しばらくして、ずっと下のほうで、があん、と、鳴った。それから、もう一度。もう一度。音は、遠く、遠く、落ちていった。
ウィラは、四角い穴を、のぞきこんだ。
穴の向こうに、床は、なかった。
大きな、丸い、縦穴だった。向こうの壁までは、市場の広場ほどもあった。底は、見えなかった。
壁に沿って、細い道が、ぐるぐると、下へ、回っていた。
その壁一面に、薄い金属の板が、隙間なく、貼られていた。板には、小さな字が、びっしりと、刻まれていた。
サイラスが、灯りを、掲げた。眼鏡の奥の目が、動いた。
『…本部の、字です』
サイラスは、穴の縁の、いちばん上の板を、指でなぞった。
『これが、いちばん新しい行です』
サイラスは、読んだ。
帝国暦三四九年、夏。一番目の刃の名前、ミラベル。命名者、オスカー・グリム。記録します。
計算できないと私が言うのは、三百四十年で、六度目です。
止まります。
それが、最後の行だった。
ウィラは、ミラベルの名前を、見ていた。いちばん上に、刻まれた名前を。
それから、下を、見た。
ずっと、ずっと下の、暗がりの底で、何かが、ぼんやりと、光っていた。
『いちばん下が、いちばん古い行です』
サイラスが、言った。
『本部は、作られた日から、毎日、ここに、書いていたのでしょう。…三百四十年ぶん、全部』
機械が止まってから、百九十四日目の夕方だった。
第九章 了