海壁

第十三章

心臓

挿絵:心臓

三十周目。三十一周目。

人の字は、だんだん、古く、浅くなっていった。ところどころ、錆びない板の上に、指でこすったような跡が、あった。何百年も前の、誰かの指の跡だった。

三十一周目に入ってすぐ、サイラスが、止まった。下りるときには、急いで、通りすぎた板だった。

『…海壁の、最初の行です』

ウィラは、サイラスの灯りの下を、のぞきこんだ。

帝国暦四十八年、秋。西の海に、壁を、建てる。

人が、海に、触れないように。

海に触れた人は、十一日で、変わる。暗がりの、小さな生き物が、体の水に、入るから。

変わった人は、自分を、止められなくなる。言われたことを、言われたとおりに、する。

だから、壁を、建てる。人を、守るために。

その下に、字の癖のちがう行が、もう一つ、あった。

名前は、海壁。西の海の、壁。

ウィラは、しばらく、動かなかった。

「…最初は、守ってたんだ」

小さな声だった。

「人を。…十二人は、人を、守ろうとして、建てたんだ」

『はい』

ベルが、言った。

『十一年あとに、本部が、役目を、変えました。…名前は、変えずに』

ウィラは、帳面を、開いた。

帝国暦四十八年、秋。十二人、海壁を建てる。人を、海から、守るために。

ウィラは、その下に、もう一行、足した。

あたしの街の、壁。


三十五周目で、道が、終わった。

底だった。

錆びない金属の、平らな床。市場の広場ほどの、丸い床。

そのまん中に、山が、あった。

粒の、山だった。

家ほどの高さに、米の半分ほどの粒が、びっしりと、積み上がっていた。一つずつが、ぼんやりと、光っていた。上から見えていた光は、これだった。

ガルドが、息を、呑んだ。

「…三百年ぶんの、粒。あの長の、言ってたとおり」

ウィラが、つぶやいた。

ジェロームが、山の縁に、膝をついた。粒を一つ、指で、つまんだ。灯りに、かざした。

『本部の、燃やす所へ、送る前の、蔵です。…心臓は、ここから、毎日、粒を、吸い上げて、動いていました。止まった日から、このままです』

「…ほんとに、あったんだ」

ベルが、ジェロームの手の中の粒を、見た。

『印が、ありません』

ベルは、山を、見上げた。

『一つも、ありません。…本部が、自分で、作った粒です。印を打つ機械を、通していません』

ウィラは、山の前に、立っていた。

印のない粒。何百万。何千万。

一つずつが、何だったのか。牛だったのか。人だったのか。海だったのか。

どこにも、書いていなかった。

ウィラは、首の袋に、手を、当てた。中に、ミラベルの、最後の一粒が、あった。

「…うちの牛には、名前が、あった」

声が、震えた。

「十一頭。全部、名前、つけてたのに。…これ、全部、名前、ないの」

誰も、答えられなかった。


山の向こうの床に、板が、一枚、埋めこんであった。

ほかの板より、ずっと、古かった。字は、浅く、かすれていた。

サイラスが、灯りを、近づけた。長い時間をかけて、読んだ。

帝国暦八年、冬。雨が、減って、百年。川が、消えた。井戸が、涸れていく。

人が、渇いて、死んでいく。灯りの燃料も、もう、ない。

十二人で、計算機を、作る。水と燃料の、不足を、解消するために。

名は、まだ、ない。

その下に、十二の名前が、並んでいた。どれも、同じ手で、刻まれていた。いちばん上が、エリス・ケイン。

「…最初は」

ウィラが、言った。

「助けたかったんだ。渇いて、死んでいく人を」

ジェロームが、ゆっくり、立ち上がった。

『私は、三十年、この機械の、手入れをしました』

ジェロームは、粒の山を、見ていた。

『止まりかけたものを、止まらないようにするのが、手入れです。…何を止めずにいたのか、今日、初めて、読みました』


そのとき、上から、声が、降ってきた。

縦穴の壁に、何度も、はね返って、響いた。

『ウィラ!』

グレゴールだった。

縦穴のまん中の、何もない空間を、グリフォンが、翼をすぼめて、落ちるように、降りてきた。底の床すれすれで、翼を、広げた。

『船です! 旗のない船が、一隻! 塔の下へ、二十人ほど!』

「旗のない船…」

『海壁の街から、逃げた船です! あのときの一隻が、三日、うしろを、ついてきていたのでしょう。私の、見落としです!』

グレゴールの声が、割れていた。

『名代と、エステル様は、丸い部屋に。ロルフが、戸の前に、立っています。…ユリウス殿の綱は、切られました』

ウィラは、腰の灯りを、握った。

エステルの、灯り。

「…エステル、灯り、持ってない」

上のほうで、火が、見えた。細い道を、ぐるぐると、下りてくる火。一つ。二つ。十。

笑い声が、縦穴に、響いた。

『刃の子! 戸を、開けてくれて、ありがとうよ!』

ウィラは、粒の山を、振り返った。それから、道の、いちばん下の、最後の曲がり角を、見た。

人ひとりぶんの幅の、道。

ウィラは、剣を、構えた。右で押す。左は、添えるだけ。

「グレゴールさん。…上の、エステルのとこへ、戻って」

『ですが』

「ここは、あたしが、止める」

ガルドが、ウィラの横に、並んだ。折れた棒の代わりに、落ちてきた戸に、はがされて、底に転がっていた、壁の板を、一枚、左手で、握っていた。錆びない金属の、薄い板だった。

『狭い道だ。…一人ずつしか、来られん』

「うん」

ベルが、ウィラの反対側に、立った。

『刃は、出しません。…ウィラの汗が、ありますので』

「知ってる」

ウィラは、上を、見上げた。

火が、あと、三周のところまで、下りてきていた。

機械が止まってから、百九十五日目の夜だった。

第十三章 了