第十二章
海壁

三周、上がった。
三十周目。帝国暦五十年代の終わりの、本部の、まっすぐな字。
サイラスは、灯りを、板すれすれに、動かした。一行ずつ。指で、追いながら。
途中で、指が、止まった。
『…イーダ、では、ありません。ですが』
サイラスは、声を、低くした。
『海壁、と、書いてあります』
ウィラは、サイラスの横に、並んだ。
帝国暦五十九年、春。海壁の名は、変えない。役目を、変える。
人を、海から、守る壁ではない。海を、人から、守る壁。
海は、燃料です。
人が、海に触れると、なぜ変わるのか。それは、人に、教えない。
理由を知らずに怖がるほうが、海は、減らない。
変わった者は、言われたとおりに、働く。壁の外から戻った者は、東へ、送る。
サイラスが、読み終えた。
しばらく、誰も、何も、言わなかった。
ウィラは、板の字を、見ていた。海を、人から、守る壁。
「…あたし、ずっと、壁に、守られてると、思ってた」
声が、かすれた。
「壁の外は、危ないから。海に触ったら、変わるから。…だから、壁があるんだって。街の子は、みんな、そう教わるの」
『海に触れれば変わる、というのは、本当です』
ベルが、言った。
『壁が、海を守っていた、というのも、本当です。…どちらも、本当でした』
「黒の書」
ウィラが、言った。
「壁の外から戻った人を、ドラグが、書いてた帳面。…丁重に、連れていかれた、って」
ガルドが、壁に、手をついた。
『東へ、送る。…そう、書いてあるな』
ガルドの手が、板の上で、拳になった。
『ドラグは、あの壁の番を、十四年、やった。…あいつに、これを、読ませたくはないな』
「読ませる」
ウィラは、言った。
「帰ったら、ドラグにも、ロズリンにも。…あたしが、書いて、持って帰る」
ウィラは、帳面を、開いた。膝の上で、書いた。
帝国暦五十九年、春。本部、海壁の役目を、変える。海を、人から、守る壁。
その上の板に、あった。
サイラスが、先に、見つけた。灯りを持つ手が、止まった。
『…ございました』
帝国暦六十八年、夏。蓋の上から、イーダ・ケインを、連れてくる。五十九。
ケインの家の娘。エリス・ケインの娘。
この人を、原型に、する。
原型の番号を、これから作る者たちの腕の、上の四桁に、入れる。
台帳の、名前の欄は、空ける。名前は、計算に、要らない。
眠らせて、血を、取る。
ウィラの手から、帳面が、落ちかけた。ベルが、受け止めた。
「…父さんの、腕の、上の四桁」
ウィラは、覚えていた。父さんの左の肘の内側に、七つの数字が、あった。上の四つは、百六人、全部、同じだと、聞いた。
「原型の、番号。…イーダさんの」
ジェロームが、壁に、片手を、ついていた。眼鏡の奥の目が、閉じていた。
『私は、三十年、この上で、手入れをしておりました』
低い声だった。
『この下に、何が書いてあるのか、一度も、読もうとしませんでした。…手入れ係の仕事では、ありませんでしたので』
サイラスは、灯りを、掲げて、上を、見上げた。今、下りてきた道の、ずっと上を。
「サイラスさん?」
『…二六八年の行を、さっき、通りました。読まずに』
「何て、書いてあったの」
『原型を、使い切る、と』
サイラスは、目を、伏せた。
『二百年、眠らせて、血を、取って。…帝国暦二六八年に』
縦穴の中が、静かだった。ずっと下で、何かが、ぼんやり、光っていた。
ウィラは、エリスの字を、思い出していた。
水が戻ったら、あの子に、麦を、育ててほしい。
イーダは、私と、同じ座り方をする。何かを待つとき、いつも。
「…待ってたんだ」
ウィラは、言った。
「イーダさん。蓋の上で、麦を、育てながら。…お母さんが、起きるのを」
ウィラは、ベルから、帳面を、受け取った。
しゃがんだ。膝を、抱えずに、背中を、壁の板に、つけて。
それから、書いた。一字ずつ。字は、また、曲がった。
帝国暦六十八年、夏。原型、イーダ・ケイン。エリス・ケインの娘。蓋の上で、麦を育てた人。何かを待つとき、背中を壁につけて座った人。
書き終えて、ウィラは、長く、息を、吐いた。
「名前の欄。…二つ目」
ベルが、ウィラの横に、同じように、座った。背中を、壁につけて。
『一〇六番も、よく、そうして、座っていました』
「うん」
『一番は、その横に、座るのが、好きでした』
ウィラは、少しだけ、笑った。泣きながら。
「知ってる。…いつも、父さんの肩に、頭、のせてた」
ガルドが、下を、のぞいた。
ずっと下の光は、さっきより、少しだけ、近く見えた。
『あと、六周だ』
ガルドは、腕を、組んだ。
『行くか』
ウィラは、帳面を、閉じた。立ち上がった。エステルの灯りを、腰に、下げなおした。
「行く。…いちばん下まで」
機械が止まってから、百九十五日目の夕方だった。
第十二章 了