第三章
つかまえた

夜明け、リーネは、納屋の戸口で、指を折った。
『…ひゃく、ななじゅう、いち』
「百七十一」
ウィラが、うしろで、言った。
リーネは、それから、壁の根へ、走っていった。毎朝、そうしていた。小さな屋根の下のオスカに、訊くためだった。
戻ってくると、リーネは、胸を張った。
『今日も、いいって』
「オスカ、なんて?」
『なんにも。…だまってるのは、いいってこと。ねえちゃんは、ずっと、うるさかったけど』
十日が、たっていた。
ウィラの手のひらは、豆がつぶれて、また、できていた。ヴェスタが、毎朝、根の酒を塗って、布を巻いた。
『わしの布を、剣の柄で、すり切るな』
「すり切れちゃうんだもん」
『なら、すり切れる前に、手を、止めい』
ヴェスタは、そう言いながら、布を、一枚、余分に巻いた。
昼は、ベルだった。
東門の前の広場で、ウィラは、鞘をつけたままの剣を、構えた。ベルは、何も持たずに、立っていた。
「刃は、出しません。…ウィラの汗に、触れたら、私が、燃えますので」
ベルは、初めの日に、そう言った。鞘をつけるのは、ベルの腕を、剣で切らないためだった。
それから十日、ウィラは、一度も、ベルに、触れられなかった。
ベルは、消えた。気がつくと、うしろにいて、指で、ウィラの肩を、とん、と叩いた。横にいて、とん。上から降りてきて、頭に、とん。
ウィラは、そのたびに、砂の上に、転がった。
『四十、いち』
広場の端で、リーネが、数えていた。ウィラが転んだ数だった。
まわりには、いつの間にか、人が集まるようになっていた。ガスと、オットと、サム。杏の籠を抱えたニム。村の長と、アンズ。エステルが、リーネの横で、膝を抱えていた。セラフィナは、その少しうしろに、立っていた。
ウィラ、がんばれ、と、ガスが、叫んだ。オットとサムが、手を叩いた。
ウィラは、起き上がった。砂を、吐いた。
「…もう一回」
『はい』
ベルが、また、消えた。
転んだ数が、五十を越えたころだった。
ウィラは、砂に、膝をついたまま、ベルを、見上げていた。
ベルは、少し離れて、立っていた。ミラベルと、同じ顔で。うしろで一本に結んだ、灰色の髪で。
ベルの口の端が、少しだけ、上がった。
一番と、同じ形に。
次の瞬間、ベルは、消えた。
ウィラは、はっとした。
もう一度、立った。剣を、構えた。右手で押す。左は、添えるだけ。
ベルを、見た。足でも、手でもなく、口の端を。
上がった。
ウィラは、振り向いた。
うしろに、ベルの指が、来ていた。
剣の鞘の腹を、ほんの少しだけ、横へ、倒した。こつ、と、ベルの手首に、当たった。指が、ウィラの肩の横を、すべっていった。
半歩、前へ。
添えていただけの左手が、空いていた。ウィラは、その左手で、ベルの手首を、つかんだ。
ベルは、消えなかった。
つかまれたまま、消えることは、できなかった。
広場が、静かになった。
「…離して、ください」
『やだ。…離さないの、得意だもん』
ベルは、自分の手首を、見下ろした。ウィラの、布を巻いた手を。
「つかまりました」
ベルの声は、いつもの平らな声だった。
「私は、今、ウィラに、負けました」
次の瞬間、ガスが、飛び上がった。オットとサムが、抱き合った。ニムが、杏を、一つ、空へ、放り投げた。
『五十、に!…じゃない!ころんでない!』
リーネが、叫んで、指を、全部、開いた。
ウィラは、手首を、離さないまま、息を、切らしていた。
「…ベル。口、上がってたよ。動く前に、いつも」
『口、ですか』
「ミラベルと、同じとこ。…ミラベルも、跳ぶ前、いつも、笑ってた」
ベルは、空いているほうの手で、自分の口の端に、触れた。
『…知りませんでした』
ベルは、しばらく、黙っていた。
『楽しかったんです。…ウィラと、こうしているのが』
エステルが、セラフィナの外套を、引いた。
「おかあさま。…ウィラ、勝ったの?」
セラフィナは、エステルの肩に、手を置いたまま、小さく、言った。
『弱いと思われている者が、強い者の手を、つかむ。…つかまれたほうは、いちばん、驚くのです』
夕方、空から、グリフォンが、二頭、降りてきた。
グレゴールと、ロルフだった。毎日、夕方に、海の上を、見回っていた。
グレゴールは、鞍から、飛び降りた。ドラグの前へ、まっすぐ、歩いた。
『隊長。西の沖に、船が、二隻。…旗が、ありません』
「旗のない船か」
『帝都で、エステル様を、さらった船と、同じです。旗を、下ろした船です』
エステルが、セラフィナの外套を、つかんだ。
グレゴールは、沖のほうを、振り返った。
『近づいてきません。同じ高さで、大きく、回っています。…近衛の、飛び方です』
「近衛の?」
『二晩、同じ高さで回って、三晩目に、来ます。…ケイル隊長が、私に教えて、私が、近衛に教えた飛び方です』
ドラグは、しばらく、黙っていた。それから、壁の上を、見上げた。
「…三晩目。あさっての夜か」
夜、ケイルが眠ってから、ロズリンは、ドラグの横に、座った。
ドラグは、揺りかごの角を、まだ、削っていた。小刀の動きが、いつもより、遅かった。
『隊長』
「なんだ」
『…抱きしめて、ください』
ドラグの手が、止まった。
「…今か」
『今です』
ドラグは、小刀を、置いた。それから、大きな腕で、ロズリンを、胸に、抱えこんだ。
ロズリンは、しばらく、黙っていた。それから、ドラグの胸に、顔を、押しつけた。
『マーロウさんとは、東へ向かう荷車の上から、ずっと、一緒に、歩いてきました』
「ああ」
『あの人の欄は、いつも、空いていました。…やっと、埋まったと、思ったのに』
ロズリンの肩が、揺れた。あの朝から、一度も、揺れなかった肩だった。
ドラグは、何も、言わなかった。ロズリンの背中を、ゆっくり、叩いた。赤ん坊を、寝かしつけるときと、同じ速さで。
長い時間が、たった。
「…ロズリン」
『はい』
「おれは、どこにも、行かん」
ドラグは、低く、言った。
「おまえと、チビの、横に、座っとる。…ずっとだ」
機械が止まってから、百七十五日目の夜だった。
第三章 了