海壁

第二十一章

よく、やったね

挿絵:よく、やったね

帝都の空は、薄く、曇っていた。

セラフィナの船が、宮殿の中庭に、降りたのは、昼過ぎだった。

エステルが、真っ先に、梯子を、駆け下りた。灯りを、胸に、抱えて。

中庭の端に、背の高い若い男が、立っていた。両腕に、白い布を、肘の上まで、巻いていた。

マルゴットの足が、止まった。

「…母さん?」

ブルーノだった。

マルゴットは、動けなかった。梯子の途中で、手すりを、大きな手で、握りしめたまま。

ブルーノが、走ってきた。布を巻いた腕を、広げかけて、止まった。腕が、痛むのだった。

マルゴットは、梯子を、降りた。息子の前に、立った。

それから、両手で、息子の顔を、挟んだ。大きな手で。

『…よく、やったね』

ブルーノの顔が、くしゃりと、ゆがんだ。

『あんたが、父さんを、止めたって。孤独の大地で、聞いたよ。…よく、やった』

「母さん」

『二回でも、三回でも、言うよ。あたしは』

マルゴットは、息子の額に、自分の額を、つけた。

『よく、やった』


オズワルドは、宮殿の東の、小さな部屋にいた。

窓に、鉄の格子があった。グレイの兵が、二人、戸の前に、立っていた。

マルゴットが、入っていくと、オズワルドは、椅子から、顔を上げた。

痩せていた。首が、襟に、埋まらなくなっていた。指輪は、一つも、なかった。

「…マルゴット」

『あんたの家は、もう、ないよ』

マルゴットは、言った。

『船は、取られた。最後の一隻で、孤独の大地まで行って、粒の山を、見てきた。…本当に、あったよ。あんたの言ったとおり』

オズワルドの目が、少し、動いた。

『でも、もらってこなかった』

マルゴットは、オズワルドの前に、しゃがんだ。

『あの子が、あんたを止めたって、聞いたから。…あの子に、恥をかかせたくなかったから』

オズワルドは、長いこと、黙っていた。

それから、縄の跡の残る手を、ゆっくり、伸ばした。マルゴットの、大きな手に。

「…おまえの手は」

声が、かすれた。

「昔から、あったかいな」

マルゴットは、笑った。泣きながら。

『覚えてたんだね』

「忘れて、いた。…ずっと」

オズワルドは、妻の手を、握った。

「数えるものが、多すぎてな」


夕方、十の家の広間に、長たちが、集められた。

丸い机。十の椅子。座っているのは、九人だった。オズワルドの椅子だけが、空いていた。

長たちは、陛下の葬いの日から、それぞれの屋敷を出ないよう、グレイの兵に、見張られていた。

壇の上に、グレイが、立っていた。白い髪。背の高い、年寄りの将軍。その横に、セドリック・ヴォルクが、紙の束を、抱えていた。灰色の服。薄い青の目。

セドリックは、ウィラの手紙を、読んだ。

孤独の大地の、心臓の部屋。三百四十年ぶんの、本部の字。十二人の字。海壁の、最初の役目。イーダ・ケインの行。

それから、底の、粒の山。

広間が、ざわめいた。

オークの女の長が、立ち上がった。白髪まじりの太い三つ編み。牙に、金の輪。

『粒の山が、本当に、あるのか』

「ございます」

セドリックが、答えた。

「家ほどの高さに、印のない粒が。…ウィラ・ケイン殿は、それを、水に戻したいと、書いておられます」

『水に?』

オークの長は、笑った。乾いた笑いだった。

『帝都の灯りは、四つに一つ、消えている。施療所も、子どもの部屋もだ。…その山は、帝国の灯りだぞ。百年ぶんの』

「ウィラ・ケイン殿は」

セドリックは、紙を、めくった。

「一人では、決めない、と、書いておられます。帝国も、共和国も、十二の家も、海壁の街も。オークも、ゴブリンも、人も。…みんなで、決める、と」

広間が、静かになった。

グレイが、口を、開いた。

『わしが、読みに行く』

長たちが、グレイを、見た。

『孤独の大地へ、行く。縦穴の字を、この目で、読む。…陛下の字に従ったように、十二人の字にも、従うかどうか、決める』

グレイは、長たちを、一人ずつ、見た。

『それまで、あの山には、誰も、手をつけるな。…誰もだ』

オークの長は、黙って、座った。


夜更け、セドリックが、塔の階段を、駆け下りてきた。塔の灯りを、点けに上がっていたのだった。

グレイの部屋の戸を、叩いた。

「将軍」

セドリックは、息を、切らしていた。

「塔の上から、見えました。…東の港から、船が、三隻。灯りを消して、東へ」

グレイが、寝台から、起き上がった。

『どこの船だ』

「旗は、下ろしてありました。ですが、船の形で、分かります」

セドリックは、紙の束を、握りしめていた。

「ゾルの家、ブラントの家、エーベルの家。…三人とも、今日、広間に、おられた長の家です」

『長たちは、屋敷から、出ていない』

「はい。出ておられません。…長は、出ずとも、命じることは、できます」

グレイは、しばらく、動かなかった。

それから、壁の剣を、手に取った。

『わしの船を、出せ。…夜明けを、待たずに』

機械が止まってから、二百日目の夜だった。

第二十一章 了