海壁

第八章

見張り交代

挿絵:見張り交代

それから、リーネは、二日、ウィラと、口をきかなかった。

朝は、一人で、納屋の戸口で、数えた。一人で、壁の根へ走って、オスカに、訊いた。ウィラが声をかけると、ロズリンのうしろに、隠れた。

三日目の朝、リーネは、戸口で、数えたあと、振り向いた。

『…ひゃく、ななじゅう、なな』

「百七十七」

ウィラが、うしろで、言った。

リーネは、しばらく、ウィラを、にらんでいた。それから、また、前を向いた。

それだけで、仲直りだった。


十三日目の朝が、来た。

機械が止まってから、百九十一日目。

リーネが、戸口で、指を折った。

『ひゃく、はちじゅう、なな』

「百八十七」

ロズリンが、納屋の前で、帳面を、開いた。

帝国暦三五〇年、春。ウィラ・ケイン、海に浸かってから、三か月。今度こそ、どこへでも行ける。

ロズリンは、書き終えてから、ウィラを、見た。

『今度は、間違えていません。…三回、数えなおしました』

ウィラは、笑った。

それから、リーネの前に、しゃがんだ。首から、角笛を、外した。牛の角の、大きな角笛。

「リーネ。…見張り、交代」

リーネの目が、まんまるになった。

「一回、長く吹いたら、船。二回、短く吹いたら、火。三回は、海から、何か来た。…壁の兵の、決まり」

『…おぼえた』

「グロムさんの隣で、見るんだよ。一人で、壁の縁に、行かないこと」

『うん』

リーネは、角笛を、両手で、抱えた。自分の頭より、大きかった。

それから、板壁の前へ、走っていった。釘を、握って。

つぎの たんじょうびまで、の線の下に、もう一本、線を、刻んだ。横に、下手な字で、書いた。

ウィラが かえるまで。

『何本、かけばいいか、わかんないから。…一本だけ。帰ってきたら、消す』

ウィラは、その字を、しばらく、見ていた。

「…消しに、帰ってくる」


壁の根の、小さな屋根の前で、ウィラは、もう一度、しゃがんだ。

「オスカ。…行ってくる。剣、ちゃんと、返しに来るから」

リーネが、横で、オスカの顔を、のぞきこんだ。

『…いいって』


東門の外に、灰色の船が、浮いていた。グレイの兵が五人、帆についていた。隣に、セラフィナの船。上に、グレゴールとロルフのグリフォン。

乗るのは、ウィラ。ベル。ガルド。セラフィナとエステル。

門の前に、みんなが、いた。ガスと、オットと、サム。ニムと、ヴェスタ。ミアと、ミラ。グロム。村の長と、アンズ。ケイルを抱いたロズリン。その横に、ドラグ。

ドラグは、ウィラの前に、立った。

「前は、おまえだ」

『うん』

「うしろは、おれが、立っとる。…ここでな」

ウィラは、うなずいた。それから、梯子を、上がった。

船が、浮いた。

壁の上で、角笛が、一回、長く、鳴った。

船だ。

小さな音だった。息が、足りなくて、途中で、裏返っていた。

ウィラは、船べりから、身を乗り出した。壁のいちばん上で、グロムの横で、リーネが、真っ赤な顔で、角笛を、抱えていた。

ウィラは、手を、大きく、振った。


一晩目の夜、ウィラは、甲板で、ロズリンの帳面を、開いた。

何を書けばいいのか、分からなかった。

星が、たくさん、出ていた。

ミラベルは、こういう夜、よく、壁の上で、叫んでいた。父さんに。朝から晩まで、何度でも。

坊や、好き。…ねえ、聞いてる? 大好き。

父さんは、いつも、ぶっきらぼうに、聞こえてる、と、一回だけ、返した。それから、ミラベルが寝てしまってから、毛布を、かけなおしていた。

ウィラは、ペンを、とった。

帝国暦三五〇年、春。海壁の街を、発つ。見張りは、リーネ・グリム・ケイン。


三日たった昼、白い道が、見えた。

乾いた塩の平野の真ん中に、白い建物の群れ。その奥に、塔。塔から離れた塩の地面に、倒れたままの、大きな腕。

白い道の入り口に、三人が、立っていた。

眼鏡を拭いている、白髪の男。その横に、若い男。額に、古い傷。少し離れて、眼鏡のつるが片方曲がった男。

ジェロームと、ユリウスと、サイラスだった。

ウィラは、梯子を、降りた。剣を、背負って。

ジェロームの目が、剣で、止まった。それから、船の上を、探した。

『…一〇六番は』

ウィラは、ジェロームの前に、立った。

「父さん、いなくなった」

ウィラは、言った。

「海に、血を、落として。…海を、残して。光になって、いなくなった。…オスカも、止まった」

ジェロームは、しばらく、動かなかった。

それから、眼鏡を、外した。拭かなかった。ただ、手に、持っていた。

『…そうですか』

サイラスが、父の横に、来た。何も、言わなかった。父の背中に、手を、置いた。

『板の名前は、今朝で、二百八十枚に、なりました』

ジェロームは、低く、言った。

『一〇六番に、見せるつもりでした』

「あたしが、見る。…父さんの代わりじゃ、ないけど」

ジェロームは、ウィラを、見た。それから、眼鏡を、かけなおした。

『こちらへ』


塔の下の、丸い部屋の奥に、戸が、二つあった。

一つは、四角く、切り抜かれた戸。ミラベルの声の板が、並んでいる部屋。

もう一つは、その倍も大きな、錆びない金属の戸だった。継ぎ目も、取っ手も、なかった。

真ん中に、輪が、彫ってあった。ぐるりと回って、一か所だけ、途切れている輪。

『本部の、心臓の部屋です』

ジェロームが、言った。

『機械が止まった日に、閉じました。…中に、何があるのか、私も、全部は、知りません』

ウィラは、剣を、背中から、下ろした。

右で押す。左は、添えるだけ。

戸の、途切れた輪の前に、切っ先を、上げた。

機械が止まってから、百九十四日目の昼だった。

第八章 了